chapter2-3. 彼を滑稽には演じない、絶対に

衣装の最初は、ボディスーツだ。お腹、胸、背中、肩に膨らみを持たせて、ポワロの体型になる必要があった。私は痩せすぎていて、ポワロらしくなかったのだ。ボディスーツを着ると40ポンドほど体重が増えて見え、200ポンド以上あるように見えた。セパレートタイプのカラーをつけると、首回りが覆われて顔がふっくらして見えた。

ボディスーツの次は服だ。スクリーンテストにおいて私は次のことを主張していた。縦縞のズボンはしわ一つなく、黒のモーニングコートはアイロンがけされたばかり、グレイのベストは体にぴったりと合っていて、白シャツは輝いていなければならない、と。さらにスタイリストが、花瓶に花があしらわれた小さなブローチをボタンホールに付け足した。ブローチは口ひげの左側にあったので、長年にわたってメーキャップ担当を困らせた。

私は衣装を着てから最後に、メーキャップ用トレーラーか更衣室で口ひげを付けた。口ひげは常に二つ用意されていて、本番用とスペアだ。

衣装係の女性リーダーは始終、ポワロの帽子に丁寧にブラシ掛けしておかなければいけなかった。46番目に書かれたポワロの特徴を彼女に忘れないようにお願いした。それは、「家を出る前、常に帽子は『優しく』ブラシ掛けされる。」

自分に言い聞かせることになった48番目は「無秩序に我慢できない。洋服のたった一つの染みでも『銃で撃たれたような痛み』のように感じる。」服には一点の染みもあってはならない。

まだ写真しかないスタジオでスクリーンテストをしに足を踏み入れた時、私はためらった。クリスティは、カメラに向かうこの男を少しでも誇らしげに書いたはずだ。そこで私は、カメラの前で、自信たっぷりに行ったり来たりして、挨拶し、帽子を持ち上げて軽く微笑んで見せた。ポワロを演じられたかどうか自信はなかった。微笑んだ顔はまだぎこちなかった。

Pride cometh before a fall (←未訳) 私はポワロを演じられていない。ポワロの歩き方もなっちゃいない。

ブライアン・イーストマンとスクリーンテストを見ていて、ポワロの動きを表現できていないことに気付いた。歩幅は大きすぎるし、足取りがしっかりしすぎている。ポワロはダンサーのように歩かなければならない。それは、落ち着いていて、優雅で、足にボールが乗っているような、そんな歩き方だ。間違ってもイヤゴーのように、勇ましく、芝居がかった気難しい感じになってはならない。

Twickenhamからの帰り、車を運転しながら、心配に憑りつかれた。ポワロの歩き方をどうマスターしたらよいのだ・・・。まったくわからない。途方にくれてしまった。その時、クリスティが一度だけ、ポワロの歩き方について書いていたのを思い出した。だが、どの作品で?もう一度、クリスティの作品をひとつずつ読み返すことになった。全く偶然に、その個所にたどり着いた。

chapter2-2. 彼を滑稽には演じない、絶対に

用意してあった口髭もひどいものだった。

大きすぎ、顔からはみ出して、まるで私はセイウチのようだった。なんてことだ!もう、なんて言っていいのかさえ分からなかった。非常にがっかりしたが、決意も新たにした。見せられた衣装は、私が演じるべきポワロのものではない、そしてポワロを絶対にピエロのような格好にはしない、と再度誓った。

ブライアン・イーストマンが助けてくれて、私はようやくアガサ・クリスティが描いたとおりのポワロの衣装を着ることができた。スリーピースのスーツにウィングカラー、スパッツ、そして磨き上げられたエナメル靴だ。このドラマの準備チームにも、ポワロに理解のない人が1人か2人はいて、「テレビ映えしないし、おもしろくない。」と言いはなったが、私はエナメル靴に足をいれた。

モーニングジャケットに縦縞のズボン、グレイのジレーを着て、一日を過ごした、とクリスティがポワロについて書いていたとしたら、私はその通りにしただろう。Not a jot more, nor a jot less (←訳していない)

ポワロの特徴、22番目は「外見に対するこだわり」で、24番目には「いつもセパレートカラー、ウィングカラー」、33番目は「髪型も含めて、ポワロの外見は、決して乱れていることはない。爪もつやつやに磨かれている。」

私の演じるポワロは上記のような恰好にするつもりだったし、そうでなければ演じるつもりはなかった。

ポワロの口ひげも然りだ。顔に何かが刺さっているような、いかにもつけ足したような髭なんてまっぴらごめんだ。髭とは顔の中央に座している、ためにポワロは人生を賭して手入れしているのだ。ポワロは、一瞬たりとも髭の美しさを保つことに気を抜くことはない。私のリストによると21番目は「純銀製の髭用手入れセットをいつも持ち歩いている。旅行の時も。」

用意された口髭に妥協する気にならなかったので、ブライアン・イーストマンと私はメイクアップアーティストに、ポワロの髭をデザインしてくれるよう頼むことにした。口ひげの参考にしたのは、1933年に執筆し翌年に出版された「オリエント急行殺人事件」である。

出版から40年後、アルバート・フィニー主演の映画が封切られた時、クリスティはコメントしている。「ポワロの口ひげはイングランドで一番美しいのです。私はそう書きました。映画ではそうなっていなかった。なぜでしょうか。」

私はクリスティに従うと決めた。ポワロにはイングランドで最も洗練された口ひげをつけさせるのだ。

ブライアンと私は、クリスティが考えていた口ひげを再現することができた。大きくなく、手入れが行き届いて、丁寧にワックスがかかっていて、ピンと跳ね上がっていて、その先は鼻に届くか届かないか、そんな口ひげだ。イングランドで他に並ぶもののない美しい口ひげで、ポワロがつけているに違いない、と私とブライアンは確信できた。

1988年の6月下旬、テムズ川からそう離れていないロンドン南西部に位置するTwickenhamフィルムスタジオで、思い描いた通りのポワロの衣装にゆっくりと袖を通した。その日、第一回スクリーンテストが行われた。

chapter2-1. 彼を滑稽には演じない、絶対に

ロンドンに戻っても、私はポワロの声についてずっと悩んでいた。きちんと表現せねばならない。コメディではないのだ。誰に笑われてもいけない。話し方はポワロを演じる上でのキモになるが、どうやって彼の声を表現したらよいのだろうか。

ベルギー語Walloonと、BBCのフランス語のラジオ番組を1セット、購入したことが助けになった。ポワロはベルギーのLiege出身で、ベルギー訛りのフランス語(ベルジャンフレンチ)を話す。ベルジャンフレンチを話すのは、ベルギー人口の30%であり、生粋のフランス語にかなり近いとされるWalloonよりも多い。これらの教材に加えて、ベルギーから放送されている英語放送と、パリからの英語放送を購入した。私が一番心を砕いたのは、うそっぽくならないようにポワロにしゃべらせることだった。また、原作を読んでいて聞こえてくるポワロの声にも近づけねばならない。これらの教材を何時間も聞いていると、だんだんとWalloonとフランス語が混じり始めてきて、ポワロの声がじわじわと自分に降りてきた。胸から頭へと抜けて、ちょっと高いピッチで、そして潔癖症っぽい感じの声だ。数週間たつと、ポワロの声を習得できたという自信がつき始めた。もし実際にポワロに会ったとしたら、きっとこんな感じでしゃべるだろう、という声だ。ポワロはきっと、軽いお辞儀と握手をし、左に頭を少し傾けながら、完ぺきにブラシがけされた灰色のハンブルク帽を持ちあげて、私に話しかけてくる、そんな声だ。

彼の特徴をノートに書き続け、そしてポワロの声を頭の中で聞くことを続けていると、ポワロを演じることに一層妥協したくなくなってきた。ポワロを面白おかしく演じることはしないと自分に誓った。ポワロはうぬぼれ屋だが、私と同様まじめである。私はそれを表現したいと思った。思っていたよりもポワロと私には共通点が多いと気が付き始めた。ポワロも私も、アウトサイダー的要素がある。ポワロはイギリスに住むベルギー人で、私はパディントン生まれのロンドンっ子だが、常に疎外感を感じていた。これだけではなく、秩序や調和を求めたがることも同じだ。また、自分の信念を曲げるのも苦手だ。これはポワロの服装にも表れている。

Bryherから戻ると、ポワロの衣装合わせがあったのだが、ポワロに適した衣装ではなかった。私の目から見ても、自分がこれまでノートに書き綴ってきた原作に描かれているポワロの服装とは思えなかった。用意してあった衣装は、華美で、派手すぎた。私が演じたいと望んでいるポワロではなく、コメディ色の強い衣装だった。私はポワロを頭が悪そうに見せたくないのだ。

用意してあった口髭もひどいものだった・・・

chapter1-7. 大役はしない

本を読み進め、彼について書かれているどんなこともメモを取るにつれて、徐々に自分が演じようとしている男のイメージがつかめてきた。

「飛行機が苦手。酔うから。」私のリストに次々と書き込まれる。こんなことも。「船旅も苦手。船酔い予防に『優れたlaverguierメソッド』を使う。」「口ひげが完ぺきに美しいように注意を払う」8番目は「いい香りのポマードを使う」「彼の持ち物には秩序と整理整頓がある。」が9番目。その次は「正義と道徳の人。敬虔なカソリック教徒。寝る前には毎晩聖書を読む」。読み進めるにしたがって、アガサ・クリスティへの尊敬の念が大きくなった。私の父が大好きな海辺の保養地トーキー州のデボンで、1890年の9月15日、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとして産まれた女性が、なぜ常にベストセラー作家であったのか、それまでの私はわかっていなかったのだ。彼女の作品が世界中で20億冊以上売れていたことや、103の言語に訳され、今までで最も翻訳された作家であること、出版された本としてはシェイクスピアと聖書についで3番目に多い、ということも知らなかった。ポワロのプロジェクトの最初に、これらの事実すべてを知っていたら、クリスティファンを満足させることや、ポワロを演じるために調査することもよっぽど怖気づいていただろう。長編短編のストーリーが55年にわたって紡がれ、ファンはポワロについてよく知っているのだ。まあ、1940年後半には、クリスティはポワロを書くのが疲れた、と言うようになるのだが。それでも彼女は1972年に、コリンズが「象は忘れない」を出版するまでポワロを書き続けた。そしてかなり前に書き上げていた「ポワロ最後の事件:カーテン」が出版された数か月後、1976年に85歳で亡くなる。

BryherのHell Bay Hotelの部屋で机に向かいポワロの特徴を次々とメモしながら、クリスティが書いたとおりのポワロを演じると決意した。11番目に書いたことは「『疑いの余地のないヨーロッパ一の頭脳の持ち主』という考えの主」一方で13番目には「探偵としての才能にうぬぼれている。ただし人としてうぬぼれてはいない」14番目は「仕事が大好きで、世界で自分が一番だと信じている。みんなが自分を知っていると思っている」15番目は「マスコミにでるのは嫌い」。

ポワロの複雑さや矛盾さ、彼のうぬぼれや特徴が、だんだんと明確になってきた。それに従って、どうしゃべるか悩み始めた。Bryherで過ごした10週間で一番悩んだのが、それだった。人口100人未満で、舗装道路などない、自然が残ったままの美しい小さな島を散歩しながら、ポワロはどう話すのだろうか、と考え続けた。島の静寂さが、助けになった。「誰もが彼をフランス人だと思う」Rushyビーチに横たわる大きな石をまたぎながら、または菫で有名なHeathy丘の草むらを踏みしめながら、独り言をつぶやいた。「ポワロがフランス人だと思われるのは、彼の訛りのせいだ」とつぶやいた。「でも、彼はベルギー人だ。フランス語を話すベルギー人は、ネイティブフレンチとは全く違うことを私は知っている。」

私は実証作業に取り掛かり、自分の声幅をフルにつかって独り言を言ってみた。頭のてっぺんや胸から声が出ていることもあったし、鼻声やきっぷのいい話し方もやってみた。低かったり、ゆっくりだったり、少ししわがれ声だったりもした。どれもポワロではなかった。確かにポワロではなかったが、話し方は習得するべき最後のことだった。Bryherに来る前、ブライアンに言われたアドバイスがいつも気になっていた。「覚えておいてくれ。ポワロには訛りがある。でも、視聴者は彼が言っていることを正確に理解できないといけないんだ」簡単に言うと、私の問題である。

正確に言うと、一つではない。偉大な探偵についてすべてを読んで知りたかった。その手がかりが近くにあることに気付いた。ポワロの特徴を書き出したリストの真ん中くらいに、1936年4月にポワロが、アメリカの出版社に宛てて自分自身について書いた手紙を見つけた。アメリカのオムニバス小説は「ロジャー・アクロイド殺し」、「13人の晩餐」(イギリスでは「エッジウェア卿の死」で出版された)そして、自分が疑問に思っていることに対する答えが記載されていた。

「私が担当した最初の事件はどれか?」とポワロはムッシューDoddに宛てて書いている。

『1904年、ブリュッセルでアバクロンビー偽装事件が探偵としての最初の仕事だった。ベルギー人としてこの事件に関われたことを、永きにわたってとても誇らしく思っていた。戦争が終わってから、そう、私はヘイスティングスとロンドンに住んでいることがあった。Farraway街14番地だ。ピアソン夫人(Mrs Peason)が月極で貸してくれていたのだ。』

読み進むと、シャーロック・ホームズがベイカー街でワトスン医師とハドソン夫人と暮らしていたこととなんとよく似ていることかと思い出した。私は知らなかったのだが、アガサ・クリスティシャーロック・ホームズから影響を受けているのだ。アガサ・クリスティは若い頃からホームズの熱心な読者で、ポワロをホームズとは性格的に違う探偵にすると決めていたが、ワトスン医師のような相棒、かつ語り手で、時には助けてくれるパートナーというアイデアは採用し、ヘイスティングス大尉として登場させた。また、ポワロの面倒をみる家政婦的な役割も登場させた。

ポワロをホームズとは別物にする、ということは絶対に必要だった。ポワロの第一作目を執筆していた時、ホームズの新作が発表され続けていたからである。コナン・ドイルの「恐怖の谷」が1915年に出版された時、クリスティはポワロについて案を練っていた。クリスティが「スタイルズ莊の怪事件」の最初の下書きを終え、そしてついにポワロの第一作が発表された後の1917年、ドイルの「最後の挨拶」が出版された。

ポワロをホームズとは全くの別物にすることは、クリスティにとって避けられないことだった。「人ごみで、どうやって私を御探しいになりますか?」クリスティは、アメリカの出版社へのポワロの手紙でこう書かせている。「私の外見で特徴的なことを三つ、挙げてみてくれませんか。物語にでてくる探偵のような奇抜な恰好はしていませんよ。」まったくもって事実ではない、と私は思ったが、ここにクリスティが大事にしていたことが分かった。

『そう、私はちょっとしたことにこだわりを持っている。ちょっとでも曲がっていたり、秩序がないと、耐えがたいのだ。本棚には背の高い本から順に並べている。薬の瓶は残量が減っている順に並べている。君のネクタイがまっすぐでなかったら、なおさずにはいられない。君の上着にオムレツがほんのちょっと載っていても、またカラーにわずかな埃があったとしても、私はそれを掃わずにはいられない。朝食には、細かくきちんと正方形にカットされたトーストと、正確に同じサイズの卵が二つがなければならない。告白すると、焼け残ったマッチを花壇から拾い、丁寧に埋めることさえするだろう。』

ポワロは自分が小男であることを強く否定している。

『私の身長は5フィート4インチ。頭は卵型で、少しだけ左に首を傾ける癖がある。人が言うところによると、興奮しているとき瞳が緑色に輝くらしい。靴はエナメルで、細身でいつもピカピカ。杖は金のリングがはめ込まれたエンボス加工。懐中時計は大きめで、時間は正確。口ひげはロンドン中で一番手入れされている。わかったかな、モナミ。ポワロは今、君の前に立っていますよ。』

そう、それが彼だ。疑いもなく、彼だ。彼はシャーロック・ホームズとは違う。読み進めるにしたがって、彼の声色がどうなのという疑問がおこった。訛りがあるのはわかるが、ポワロはどんなふうにしゃべるのだろうか。Brian Eastmanと私はポワロの見た目を表現することできるが、しゃべり方はどうだろうか。これは私の俳優としてのキャリアにおいて重要な意味を成してくると思った。たった一つの役のために私は自己を失いかけているのか?役を演じる時の俳優としての落とし穴に落ちてしまうのだろうか?いや、そうならないようにする、しかし私は危険を感じ取っていた。

6月初旬のある夕方、それはBryherで映画「When the Whales Came」のクランクアップの直前であり、ポワロの初めて演じる数週間前だったのだが、私は映画のexective producerであるGeoffrey Wansellとしゃべっていた。彼とは後に親しい間柄になり、この自伝を共著する仲になったのだが、その彼とポワロを演じるということや、それがどんな意味を持つかを論じていた。

「そうだな、ひとつ言えるとしたら・・・、」Geoffreyは言った。「君の人生が変わってしまうだろうね。君は一つのドアをくぐることになるよ。そしてそのドアに戻って潜り抜けることは二度とできないんだ。」

「冗談だろ」私は言った。「私は変わらないよ。一介の俳優だ。そうありたいと思っている。」

「いや、今と同じでいられるなんて思うな。」彼は応えた。「すべてが変わる。君が望むと望まないに関わらず、後戻りはできなくなる。でも、同じような役ばっかり演じることになる、とは言ってない。ポワロを演じている間は、ポワロが君の一部になる、ってことさ。」

BlottやFreudの書く人物を演じてきたので、ポワロになりきることは願ってもないことだった。私は性格俳優だ。まさに人生をかけてそうだった。そしてこれからも。私はポワロになるのだ。間違っても「スター」俳優ではないのだ。

そのすぐ後に、Bryherから長い帰路をたどることになった。まずセントメアリ(St Mary’s)まで舟で行った。Scilly Islesの一番大きな舟で、元首相ハロルド・ウィルソン所有のバンガローがある、あのセントメアリだ。それからヘリコプターでPnzanceへ行き、長時間電車に乗ってパディントンに着き、ようやくActonの我が家へ帰ることができた。この旅の中で、自分自身について考えるようになった。

その答えをはすぐに見つかった。

chapter1-6. 大役はしない

  1969年、23歳だった鳴かず飛ばずのチェスター時代から信じてきた、俳優としてのあるべき姿への信念があったから、ポワロの特徴を正確にとらえて演じた。

プロとしての初めてのこの年、なぜ自分は役者をしているのか、という自身のアイデンティティについて悩んでいた。本当に役者になりたかったのだろうか?どうしてもスター俳優になりたいのだろうか?

わからなかった。

プロの役者になって夢がかなった部分もあるが、それがなんだというのだろうか。本当に望んだことは何なのだろうか。本当にわからなかったので、役者とは何か、辞書でひいた。そこには、俳優、舞台役者とあって、まったく役にたたない答えだった。もし、私の目的が、舞台や映画スタジオで誰かを真似て気取って歩くことなら、とうてい満足できなかっただろう。そんなことを目的にしていたら、南アフリカ生まれの婦人科医とケント出身の大衆演劇役者の娘で、イギリス人女優の間に産まれた無口な息子を演じることはできなかっただろう。掘り下げて考えると、自分は誰かの真似をしたいと思っていなかった。役を実際に生きているように存在させたいのだ。まったくの別人になり切りたかった。スターではなく、性格俳優になりたかった。

それが、役者になりたい理由だ。戯曲家や脚本家の作品を見ていると、私の性格や人柄が彼らに与える印象によって私の役が決まっていると気づいたのもその頃だった。性格や人柄こそが、ドラマを作るということに、とても驚いた。そして役者としての私の目的が、作者の代弁者になることになった。その気づきは晴天の霹靂のようだった。私が演じるのは性格で、作者の意図する本当の人格を引き出すことが私の仕事だと思った。最終的にポワロを演じる決意の奥には、この思いがあった。

この自伝を書いた理由の一つはこの思いだった。

性格俳優であるということが、私にとってどういう意味があるのかを説明したかったのだ。四半世紀以上、同じ役を演じるにあたって何が支えになったのか知ってほしかった。シャーロック・ホームズを演じてきたBasil Rathboneや、ジェレミー・ブレット、警部Morseを演じたRaymond Burr、彼はPerry MasonとIronsideも演じた、Doctor Kildareを演じたRichard Chanberlain など、何年にもわたって同じ役を演じた他の俳優が自分と同じだと言うつもりはない。

世界中で良く知られ愛されている人物をやってみないかと頼まれるほどの幸運に恵まれた、まさにその時、作品と仕事が自分にとってどんな意味を持っていたのかということを説明したかったのだ。アガサ・クリスティのポワロに初めて「なり切った」のは1988年の最初の月だった。ポワロになりきるために彼に関することは何でも知っていたかったし、ポワロが私の中で実在するようになったのと同じような感じで、世界中に彼がまるで本当に存在するかのように演じたかった。ポワロは私に仕事の目的を与えてくれたのだ。

また真実の彼を演じることでアガサ・クリスティに恩を返したかった。ポワロを演じるのに没頭しはじめると同時に、「When the Whales Came」というMichael Morpurgo の子供の話を原作にしたイギリス映画の出演依頼を受けた。イギリス最南端にあるランズエンドから30マイル離れた北大西洋にあるシリー諸島を舞台に、岸に打ち上げられたイッカクを保護し、また呪いから島を守ろうとする二人の子供の物語である。ユースナショナルシアターからの旧友であるヘレン・ミレンと、忘れがたい人だがとてもシャイなPaul Scofieldが配役された。Paul はRobert Blotの「A Mna for All Season」で1966年にオスカーを受賞しているし、ブロードウェイのPeter Scheffer作品「アマデウス」のサリエリ役で1979年にトニー賞も受賞している。彼のリア王の演技は、「これまでのシェイクスピア作品において最高の演技」とまで言われたし、彼の世代では間違いなく一番素晴らしい俳優の一人であることは間違いない。

シリー諸島での撮影は4月から6月の10週間を予定していて、私にはヘレンとPaulについで大きな役である、Willという地元の漁師役が配役される予定だった。大した役ではないが、シリー諸島は美しく、ポワロ以上のチャンスであるように見えたし、ロンドンのわずらわしさや電話攻撃から逃げる絶好の機会だと思った。それに、シェイラと子供たちは、学期の中間休みの間、丸一週間一緒にいられると、シリー諸島に行くのを楽しみにしていた。1988年、シリー諸島の一番小さな島、Bryherで美しい春を過ごした。映画の撮影の合間にポワロを読んでいた。読めば読むほど、小男の魅力に取りつかれた。彼には小さな欠点や、普通の人なら理解に苦しむ習慣、癖がたくさんあった。例えば、秩序正しいこと、イギリスでの嫌いなもの、「Turnip(蕪)」と呼ばれる大きな懐中時計をいつも携帯していること、などである。どれもかなり特徴的だが、また魅力的でもある。5月の風が6月にさらに温かくなるころ、私は「性格のdossier(フランス語で「事件簿」)」と名付けた私的なノートにポワロの癖と性格を書き出していった。5ページにわたって、93の彼の様々な特徴を書き上げた。そのリストはまだ持っている。ポワロを演じていたときはずっと、撮影に持って行ったし、ポワロ作品で一緒に働いた監督全員にコピーを渡しさえした。

リストの1番目はシンプルだ。「ベルギー人!フランス人じゃない!」2番目は「チザン茶(ハーブティ)を飲む。彼が『イギリス人の毒薬』と呼ぶ紅茶はほとんど飲まない。もしくはコーヒーを砂糖入りで。」

3番目は、「お茶とコーヒーには砂糖を4個。たまには3個。1度か2度は5個も!」

「先のとがった窮屈な、磨き上げられたエナメル靴」が4番目。5番目は「大仰にお辞儀をする(Bows a great deal)。握手をしている時でさえ。」

chapter1-5. 大役はしない

読み始めてみると、今までの映像では見たことのないキャラクターであることが分かってきた。

アルバート・フィニーでも、ピーター・ユスチノフでも、1986年のBBCドラマ「Murder by the Book」のイアン・ホルムでもなかった。

ポワロは、そのどれでもなかった。もっと理解しがたい人物で、全ての事において些末にうるさく、映像化されたどの人物より人間味にあふれていた。

それでも私がポワロを演じるべきかどうか悩んでいた。そこでロンドンのインディペンデントテレビニュースでキャスターをしていた兄のジョンに相談することにした。私より2つ上で、私はいつも尊敬している。彼に電話をかけた。「ジョン」。少し緊張していた。「アガサ・クリスティは読みましたか」。少し間があいてから「最近は読んでないなあ。でも1つか2つは拾い読みしたかな」「エルキュール・ポワロを知っていますか」「もちろん。ポワロは一番有名な登場人物だよ」「あー・・・、実はポワロの1時間ドラマを10本製作しようかって話があるのですが、僕がポワロ役で。僕だけが彼を知らないんです。彼についてどう思いますか」しばしの沈黙があった。「I wouldn’t touch it with a barge pole(管理人注釈:お兄さんのこの意見がchapter1のタイトルになっています。しかし、私はここを訳せませんでした。お分かりの方おりましたらご教示ください)」彼は強く言った。

「本気ですか」とうっかり言ってしまった。「そうだ。ポワロ役っていうのは大した悪ふざけだね。お前には無理だよ」

そうだろうと思っていた。「でも私が今読んでいるのは、悪ノリなんかじゃないですよ。今まで誰も演じてこなかったポワロです」

また沈黙だ。「やりがいのある仕事です。もし私が、原作に書かれた人物を映像化できるなら。」つっかえながら話していた。

溜息がきこえた。ジョンはものすごく優しくて紳士である。私を困らせるようなことはしない。「もちろん、君がしたいのならそうするべきだ」静かに言った。「頑張れよ。一つだけ忠告しておくよ。視聴者にポワロを真面目に捉えてもらうのは、ものすごく難しいと思う」彼が正しいことはわかっていた。

ただ、私はアガサ・クリスティの小男について、もっとよく考えていたし、私は今までに誰も見たことのないクリスティのポワロを映像化できるという自信が芽生えていた。

数日後、ブライアンに電話した。「やりたいと思ってるよ、ブライアン」心からそう言った。1988年の年明けだった。

 

「素晴らしい!君の事務所に連絡するよ。まだ誰にも言ってないんだ。君が最初にコンタクトした相手なんだよ。僕は君がポワロを演じたいと思うって確信していたよ」

 

数百万人にポワロをお目見えする長い長い旅の始まりだった。今までの映像化された「灰色の脳細胞」と、てかてかした口ひげの探偵のどんな小さなことも見逃してはならないことを私はわかっていた。短編を含むすべての原作を集めて、ベッドの横に積み上げた。アガサ・クリスティが描いたポワロの神髄に近づきたかったし、彼が本当はどんな容姿なのか知りたかった。今までの映画やドラマで描かれたような、滑稽なポワロを演じる気はなかった。自分にできる限りのことをして、本に書かれた通りの本当の彼になりたかった。

 

最初に分かったことは、ポワロを演じるには若すぎるということだった。「スタイルズ荘の怪事件」で彼が初めて登場したとき、ポワロは60歳で警察を引退して探偵になっていたが、私はまだ40代初めだ。それだけでなく、原作によるとポワロは私よりかなり太っている。私が本物のエルキュール・ポワロだと世界に認めさせる為には、衣装とメイクに入念な注意を払わなければならないことは言うに及ばず、大量のパッドを詰めなければならないだろう。

 

読み進めるにつれて、もっと重要なことで、そして大事なことは、彼がとても真面目な人物として演じる必要があるということだった。シャーロック・ホームズがただのバイオリン弾きのモルヒネ中毒者ではないのと同じように、ポワロは滑稽な訛りでしゃべる馬鹿な小男などではない。アガサ・クリスティが掘り下げただけの価値が、ポワロにはある。だから私は映像化したくなってしょうがなかった。

chapter1-4. 大役はしない

ある日、撮影の休憩時間にユスチノフは私に言った。

「君ならポワロをやれる。とてもあってると思うよ」。

 

とても驚いたが、真面目にとりあわなかった。だが、10月のその夜、ブライアンとインド料理を食べながら話をしているとき、ユスチノフのその言葉が思い出された。ブライアンが「アルバート・フィニーのは見たんだよ、もちろんね」。彼は皿をテーブルの端に寄せながら言った。「『オリエント急行殺人事件』だよ。本当におもしろかった」

 

私は1974年のアルバートの演技を思い出していた。なんだかテンパッているな、という印象だった。アルバートは首をまったく動かしていないように見えたし、しわがれ声で、いつも怒っていた。だからといって彼の演技は損なわれていなかったし、ローレン・バコールイングリッド・バーグマン、John・Gielgud、ショーン・コネリーの演技も素晴らしかった。ショーン・コネリーは美貌で有名なDiane Cilentoと結婚していた時、Actonで私の近所に住んでいたことがあった。

 

ブライアンはカレーを口いっぱいに頬張って、「ロンドンのITVでポワロを原作にして新しいドラマシリーズを撮りたいんだ。テレビ局は乗り気で、来年に短編をもとにした1時間ドラマを10本作る予定だ。」と言った。

そしてちょっと間をおいて、爆弾発言をした。

 

「是非ポワロをやってほしいんだ」

私はカレーが載ったスプーンを口に運んでいたが、口の半分で止まった。

言葉通り、びっくり仰天したのだ。

その時の驚きは今でも覚えている。

 

私が? 

 

シェイクスピア劇の役者で、恐ろしげな悪役を演じてきた私が、

潔癖症で禿げ頭の探偵を?

 

どうしたらいいのかまったくわからなかったが、断らなかった。驚きすぎたのだ。

レストランを出た後、ブライアンは言った。

「本を送るよ。それを見てから考えをきかせて」

 

そう言って彼は暗闇に消えた。わたしは呆然としながら家路についた。2日後、数冊のポワロの原作が送られてきた。そのあとすぐに、ポワロの事件簿(Poirot’s Casebook)のコピーがきた。それにはブライアンが、最初の10話のテレビドラマシリーズで撮ろうとしている短編が書かれていた。私は興味を持った。しかし私はよく考えなければならない(I also thought I’d better know what I might be getting myself into)。

 

ページをめくった。