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chapter1-5. 大役はしない

読み始めてみると、今までの映像では見たことのないキャラクターであることが分かってきた。

アルバート・フィニーでも、ピーター・ユスチノフでも、1986年のBBCドラマ「Murder by the Book」のイアン・ホルムでもなかった。

ポワロは、そのどれでもなかった。もっと理解しがたい人物で、全ての事において些末にうるさく、映像化されたどの人物より人間味にあふれていた。

それでも私がポワロを演じるべきかどうか悩んでいた。そこでロンドンのインディペンデントテレビニュースでキャスターをしていた兄のジョンに相談することにした。私より2つ上で、私はいつも尊敬している。彼に電話をかけた。「ジョン」。少し緊張していた。「アガサ・クリスティは読みましたか」。少し間があいてから「最近は読んでないなあ。でも1つか2つは拾い読みしたかな」「エルキュール・ポワロを知っていますか」「もちろん。ポワロは一番有名な登場人物だよ」「あー・・・、実はポワロの1時間ドラマを10本製作しようかって話があるのですが、僕がポワロ役で。僕だけが彼を知らないんです。彼についてどう思いますか」しばしの沈黙があった。「I wouldn’t touch it with a barge pole(管理人注釈:お兄さんのこの意見がchapter1のタイトルになっています。しかし、私はここを訳せませんでした。お分かりの方おりましたらご教示ください)」彼は強く言った。

「本気ですか」とうっかり言ってしまった。「そうだ。ポワロ役っていうのは大した悪ふざけだね。お前には無理だよ」

そうだろうと思っていた。「でも私が今読んでいるのは、悪ノリなんかじゃないですよ。今まで誰も演じてこなかったポワロです」

また沈黙だ。「やりがいのある仕事です。もし私が、原作に書かれた人物を映像化できるなら。」つっかえながら話していた。

溜息がきこえた。ジョンはものすごく優しくて紳士である。私を困らせるようなことはしない。「もちろん、君がしたいのならそうするべきだ」静かに言った。「頑張れよ。一つだけ忠告しておくよ。視聴者にポワロを真面目に捉えてもらうのは、ものすごく難しいと思う」彼が正しいことはわかっていた。

ただ、私はアガサ・クリスティの小男について、もっとよく考えていたし、私は今までに誰も見たことのないクリスティのポワロを映像化できるという自信が芽生えていた。

数日後、ブライアンに電話した。「やりたいと思ってるよ、ブライアン」心からそう言った。1988年の年明けだった。

 

「素晴らしい!君の事務所に連絡するよ。まだ誰にも言ってないんだ。君が最初にコンタクトした相手なんだよ。僕は君がポワロを演じたいと思うって確信していたよ」

 

数百万人にポワロをお目見えする長い長い旅の始まりだった。今までの映像化された「灰色の脳細胞」と、てかてかした口ひげの探偵のどんな小さなことも見逃してはならないことを私はわかっていた。短編を含むすべての原作を集めて、ベッドの横に積み上げた。アガサ・クリスティが描いたポワロの神髄に近づきたかったし、彼が本当はどんな容姿なのか知りたかった。今までの映画やドラマで描かれたような、滑稽なポワロを演じる気はなかった。自分にできる限りのことをして、本に書かれた通りの本当の彼になりたかった。

 

最初に分かったことは、ポワロを演じるには若すぎるということだった。「スタイルズ荘の怪事件」で彼が初めて登場したとき、ポワロは60歳で警察を引退して探偵になっていたが、私はまだ40代初めだ。それだけでなく、原作によるとポワロは私よりかなり太っている。私が本物のエルキュール・ポワロだと世界に認めさせる為には、衣装とメイクに入念な注意を払わなければならないことは言うに及ばず、大量のパッドを詰めなければならないだろう。

 

読み進めるにつれて、もっと重要なことで、そして大事なことは、彼がとても真面目な人物として演じる必要があるということだった。シャーロック・ホームズがただのバイオリン弾きのモルヒネ中毒者ではないのと同じように、ポワロは滑稽な訛りでしゃべる馬鹿な小男などではない。アガサ・クリスティが掘り下げただけの価値が、ポワロにはある。だから私は映像化したくなってしょうがなかった。

chapter1-4. 大役はしない

ある日、撮影の休憩時間にユスチノフは私に言った。

「君ならポワロをやれる。とてもあってると思うよ」。

 

とても驚いたが、真面目にとりあわなかった。だが、10月のその夜、ブライアンとインド料理を食べながら話をしているとき、ユスチノフのその言葉が思い出された。ブライアンが「アルバート・フィニーのは見たんだよ、もちろんね」。彼は皿をテーブルの端に寄せながら言った。「『オリエント急行殺人事件』だよ。本当におもしろかった」

 

私は1974年のアルバートの演技を思い出していた。なんだかテンパッているな、という印象だった。アルバートは首をまったく動かしていないように見えたし、しわがれ声で、いつも怒っていた。だからといって彼の演技は損なわれていなかったし、ローレン・バコールイングリッド・バーグマン、John・Gielgud、ショーン・コネリーの演技も素晴らしかった。ショーン・コネリーは美貌で有名なDiane Cilentoと結婚していた時、Actonで私の近所に住んでいたことがあった。

 

ブライアンはカレーを口いっぱいに頬張って、「ロンドンのITVでポワロを原作にして新しいドラマシリーズを撮りたいんだ。テレビ局は乗り気で、来年に短編をもとにした1時間ドラマを10本作る予定だ。」と言った。

そしてちょっと間をおいて、爆弾発言をした。

 

「是非ポワロをやってほしいんだ」

私はカレーが載ったスプーンを口に運んでいたが、口の半分で止まった。

言葉通り、びっくり仰天したのだ。

その時の驚きは今でも覚えている。

 

私が? 

 

シェイクスピア劇の役者で、恐ろしげな悪役を演じてきた私が、

潔癖症で禿げ頭の探偵を?

 

どうしたらいいのかまったくわからなかったが、断らなかった。驚きすぎたのだ。

レストランを出た後、ブライアンは言った。

「本を送るよ。それを見てから考えをきかせて」

 

そう言って彼は暗闇に消えた。わたしは呆然としながら家路についた。2日後、数冊のポワロの原作が送られてきた。そのあとすぐに、ポワロの事件簿(Poirot’s Casebook)のコピーがきた。それにはブライアンが、最初の10話のテレビドラマシリーズで撮ろうとしている短編が書かれていた。私は興味を持った。しかし私はよく考えなければならない(I also thought I’d better know what I might be getting myself into)。

 

ページをめくった。

chapter1-3. 大役はしない

それからはすごく幸運続きで、シアターや映画、ラジオ、テレビで常に仕事をしていた。1973年には、27歳でロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの会員にもなった。カンパニーでの仕事は、ものすごく楽しかった。映画「Song for Europe」や、John Lighgowと共演した「Harry and the Hendersons」、ショーン・ペンとTim Huttonと共演した「The Falcon and the Snowman」、私が南アフリカのものすごく怖い警察の取調官を演じた「A world Apart」に出演したときと同じくらい楽しかった。

しかし、テレビで放映された「Blott」が視聴者に私をイメージ付けしてしまった。Tom Sharpeは電話をかけてきて、涙ながらに、あんなにうまくあの人物を演じることができるなんて想像もしていなかった、と言った。私はジーンときた。

「Blott」がBBCで制作され、Bringhton-born filmのテレビプロデューサーであるBrian Eastmanが1987年の秋の夕方、電話をかけてきて、近くまで行くから夕ご飯でも一緒にどうか、と誘ってくれたのだ。彼は背が高く、スリムで、そして友人や尊敬する人物と仕事をするのを好む。「Blott」のおかげで、私たちは友人になった。私は夕食を承諾した。

Brianはインド料理店に行く前に、私の家に寄って、妻のシェイラと軽く話をし、6歳の息子と4歳になる娘、ロバートとキャサリンに会った。インド料理店では向き合って座り、マドラスチキンと野菜ピラフを囲んでいた時、Brianが突然「アガサ・クリスティは読んだことがあるか」ときいてきた。

私は青ざめた。実を言うと全く読んだことがなかった。1冊も、だ。私の父は素晴らしい人で、また一流の婦人科医で、兄のジョンや弟のピーター、そして私にも本を読むようにいつも勧めていた。「偉大で不滅のシェイクスピアを読みなさい。自分自身で。」我々は父のアドバイスに従ってきた。だから「the Kreutzer Sonata」でトルストイの哀れなPozdnyshevを演じるのがすごく楽しかったのだ。

「あー・・・、正直にいうと、ブライアン、読んだことないんだ」元気なく答えた。「たくさんのファンがいるのは知っているけど、まったく好みじゃなくて」。ブライアンは特に困った様子ではなかった。「ポワロの映画は見たことある?」スプーンでピラフをすくいながら彼は尋ねた。見たことがあるどころではない。私はその一つに出演している。

「1985年に、CBSで制作されたピーター・ユスチノフの『thirteen at dinner』に出たよ。イアゴーをやるまえだ。ジャップ警部だった。」

大役でないことは分かっていたが、Stratfordに行くのにお金が必要で引き受けた仕事だった。また、幼い子供を養わなければならなかったからだ。ブライアンには言わなかったが、私のジャップ警部の演技は、おそらく今までのキャリアで最悪だった。どう演じたらいいのかさっぱりわからなかった。しょうがないので、強欲な賭けの胴元みたいに演じることにして、映っているときは、いつも何か食べていた。あるシーンではポワロの朝ごはんを食べて、ユスチノフを大いに喜ばせた。

ユスチノフと私は撮影中、ポワロについて語り合った。彼は役を気にいっていたし、コミカルな見た目を表現していた。しかし彼は分かっていたのだ。自分はアガサ・クリスティが書いたポワロを演じることはできない、と。ユスチノフはポワロを演じるには大男すぎた。ユスチノフの性格が演技にも反映されていたが、それもアガサのポワロとは違う。そして喜劇役者の訛りがあった(he used the accent as part of his comic armouny)。

ある日、撮影の休憩時間にユスチノフは私に言った。「君ならポワロをやれる。とてもあってると思うよ」。

chapter1-2. 大役はしない

1987年の秋の夕暮、西ロンドンのActonにあるインド料理店で、ある役をやってみないかともちかけられた。その前に俳優としての経歴を語らなければならない。それがあってこそポワロが私のキャリアにやってきたのだ。私とポワロはリンクしている。それは読者にとっても同じだろうと私は思っている。

最初から始めよう。いったいどうしてその役をもちかけられたのか?結局のところはわからない。20年近くというもの、魅力的な探偵ではなく、悪役を演じていた。ロイヤルシェイクスピアカンパニーでベニスの商人シャイロック、Ben Kingsleyのオセロのイアゴーを演じた。BBCの6時間ドキュメンタリードラマではSigmund Freudを演じ、トルストイの悲恋を描いた「The Kreutzer Sonata」のドラマ化でラジオドラマの賞を受賞した

Tom Sharpeの素晴らしい喜劇小説「Blott on the Lndscape」に登場するエキセントリックで邪悪な植木屋Blotを演じたのは皮肉なことに、また別の意味でも悪役であった。これは1985年にBBCでドラマ化され、このドラマがきっかけで、このレストランでの話し合いになっているのだ。奇妙で恐ろしげな男を自由自在に演じることに没頭してきたことが、土地開発者から貴族の未亡人とその田舎屋敷を守るポワロという人物に結びついたのだ。そう、以降の私の人生の多くを占めることになる小男である。

ポワロが初めて私の前に現れたとき、私は41歳であった。18歳でユースナショナルシアターの会員になって、私は悪役を演じるのが楽しかったし、ロイヤルコート思考法に基づき舞台裏にもいた。「これこそ自分が人生でやりたかったことだ」そう思ったのだ。父は私に自分の後を継いで医者になることは望んでいなかった。それでも役者になりたいと言った時、父は肝が冷えたらしい。学校で演技を学んだ。校長は父親に「デイビッドが唯一できることが演技ですよ」と言ってくれた。ただしそれは事実ではなく、私はラグビーもテニスもクリケットも同じくらい上手だった。それでも私が役者になるのを心底嫌がっていたが、それでもしぶしぶながらも、どうしようもないと思っているようだった。

情熱に満ち溢れて、ロンドンの演劇音楽中央学校(the Central School of Music and Drama)の試験を受けたが、落とされた。歌えなかったからだ。なので、ロイヤル演劇芸術アカデミーの試験に乗り気ではなかった。それでも数週間後には元気になってロンドン音楽演劇芸術アカデミー(LAMDA)の試験を受け、合格した。

しかし私は役者に向いているとは言えなかった。まだ実家に住んでいたし、スーツを着、ネクタイをして1966年にLAMDAで初めて登校したが、私以外はBeatle capをかぶりジーンズを穿いていた。

最初の授業では、学校のラグビーカラーで臨んだが、すぐにレオタードとタイツを買いに行かされた。ある先生は私にジーンズを買うように説得しようとしたが、学生時代にラグビーに励んだせいで、太ももがとても太かったのでジーンズを穿く気になれなかった。LAMDAは最初、私に役者としてあまり期待していなかったと思う。少なくともChristopher Fryの1948年のコメディドラマ「the Lady’s Not for Burning」で市長Hebble Tysonを演じた元子役のJeremy Spenser が私に役を与えるまでは。初めて役がついたし、自分が得意なことがわかりかけた。LAMDAも同じだったと思う。私が卒業した後になるが、ベストスチューデント賞で私を表彰したのだ。

1969年、チェスターのGateway シアターで副舞台監督を務めていて、2週間ごとに新作を上演していた。これは始まりでしかなく、その後数年はぱっとしなかった。キャリアで初めで十分な「休養」をとることができた。我々役者は仕事をしていない時期をそう呼ぶのだ。1970年初め、生活のために、ドッグフードを大型トラックから荷降ろしする仕事をし、またアパートのエレベーター管理担当にもなり、そしてMoss Brosでフォーマル服の販売と買付けもやった。

Moss Brosが副店長として研修を受けないかと持ちかけてきたときは、もう役者として働けないのではないかと思って、ほんとうに怖かった。ただ、断る理由はなかった。しかしその時運命が動いた。研修を受けます、と言おうと思っていたその朝、1本の電話がかかり、Robert VaughnとNyree Dawn Porterが出ているテレビ番組「The Protectors」への出演依頼が舞い込んだ。ヴェネチアで撮影中だったが、私は迷うことなくヴェネチアへ飛んだ。これでもう紳士服を売らなくていい!

chapter 1-1. 大役はしない

2012年11月午後遅く、エルキュール・ポワロが死んだとき、私の一部分もポワロとともに死んだ。

アガサ・クリスティが生み出した潔癖症のベルギー人探偵は四半世紀にわたって私の人生の一部であった。ドラマの時間で100時間以上、25年以上にわたってポワロを演じてきたのだ。そして、彼の死も演じた。

綺麗好きで、優しく、紳士で、灰色の脳細胞を持ち、外国訛りで喋り、気取って歩くポワロを、言葉で表すことは難しいが、これらは私にとって重要なヒントだった。私は彼の役を演じただけだが、彼を失うのは最も親しい友をなくすのと似ていた。しかし私は正しかったと思っている。ポワロに命を吹き込み、世界中の数百万人の人々が彼に関心が向くのをよう、出来る限りのことをした。あの日テレビスタジオで、最後の息を引き取るとき、それはせめてもの慰めだった。私はもう二度と彼を演じることはないのだから。映像化する原作はもうないのだ。

エルキュール・ポワロの死は長い創造的な旅の終わりでもあった。だからこそ感情的になってまで、アガサ・クリスティの本当のポワロを演じたかった。アガサは1920年に「スタイルズ荘の怪事件」で初めてポワロを登場させ、約50年以上後の1975年、「カーテン」で彼に最後の時を迎えさせるのである。ポワロが私にとって現実に存在しているようだったのと同じように、アガサにとってもそうだった。偉大な探偵で、頭がよく、時々ちょっといらっとさせられる。ポワロは私の人生につねに一緒で、それはアガサにとっても同じだった。33の長編、50の短編と舞台脚本を1本書いた。そしてシャーロック・ホームズと並んで、世界で最も有名な探偵の一人となったのだ。

だが、どうしてこのようになったのだろうか。どうして私は何年にもわたって、モーニングコートを着て、ピンストライプのズボンを穿き、エナメルの靴を履き、エレガントなグレーのホンブルク帽をかぶっているのだろうか。太っていて、鼻眼鏡を掛け、「ssh」が言えなくて「chut」と言う60代の小男と私に、何の共通点があるというのだろうか。

過去を振り返ると、自分で自分に疑いを持つのである。その疑問に答えるには、だいぶ昔に遡らなけばなるまい。

プロローグ

それは湿度が高く、肌寒い11月の金曜の朝だった。年を取ったものだと感じた。そう、私は年寄りだ。今にも死にそうだ。狭心症だということは他人にはわかるまいが、その病気は確実に私の健康を侵している。息をするたびに、激しい咳がでる。体重は落ちたし(I have lost two stone in weight)、顔色は経年劣化した羊皮紙のようで、指はゴツゴツと節くれ立って、まるで人間鉤のようだ。

実際に、私は死の床でまっさらな白い綿のシーツにくるまれているため、手と顔しか人には見えないのだが。アガサ・クリスティが生みだした、かのベルギー人探偵エルキュール・ポワロとして、私は今まさに息を引き取ろうとしていた。私はポワロとともに俳優として、四半世紀を生きたのである。少なくとも66以上のテレビドラマで彼を演じ、そして今まさに別れを告げようとしている。

この役はどんな仕事よりも難しかった。でも、私は彼を演じた数多の俳優の一人でしかないことも承知している。

ポワロの死はバッキンガムシャー州にあるpinewoodスタジオのsound stage Aで収録された。ロンドンから北西に20マイル離れている。この11月の朝11時、大きなechoing stageの真中に特別にセットされた小さな寝室で私は横たわっていた。セットはスタイルズ荘の部屋を模して造られている。ポワロはスタイルズ荘で最後の事件「カーテン」に会い、臨終の時を迎えるのである。

90名のスタッフが大きな照明と軽快な音で私を囲んでいる。メイクアップ係、写真監督、二台のカメラとカメラマン、カチンコ持ち、そして才能ある若き監督Hattie Macdonald。彼女はいま30台後半だが、イギリスでは最も繊細で実力ある監督の一人である。彼女は役者の魅力を引き出し、観客を驚かす力を持っている。彼女は2007年のテレビドラマ「ドクターフー」で「最も怖かった」エピソードと言われている「Blink」を製作したのだ。ただし、今日、彼女は誰かを脅かす為にここにいるのではない。彼女は、シャーロックホームズと同じくらい有名な想像上の探偵の死のシーンを作るためにここにいるのだ。ポワロは全ての点においてホームズと同じくらいの喜びを全世界に与えてきたのだ。だから、このスタジオの雰囲気が悲しくなるのだ。いつもなら、冗談や笑いが飛び交っている撮影班だが、今この時は全く静かだ。最愛のベルギー人探偵が今死のうとしている。そのことにだれも耐えられないのだ。皆がポワロを演じている私の一挙手一投足を見ている。スタッフの目の前で、彼は死のうとしているのだ。

ポワロの死のシーンは2回に分けて撮影された。とても広いスチール製のsound stageの中央にセットされた寝室に俳優は二人いて、それぞれにカメラが向けられたためだ。二人の俳優とは、もちろん私と、信頼関係にあり長年にわたってポワロと友人であるヘイスティングス大尉を演じるヒュー・フレイザーである。彼は私にとっても親友である。

ベルがセットに鳴り響いた。撮影に入ったのだ。カメラが回り、友人はわたしに様子はどうかと尋ねている。「まだ生きてますよ」とちょっとしたジョークめいて私が小声で答える。でもポワロは笑わない。狭心症のせいで、彼は咳き込む。ヘイスティングスは横のテーブルにあるコップをポワロに渡そうとする。これまでのポワロなら、その場所でスタイルズ荘でおこった犯罪についてヘイスティングスに分かるように説明するだろう。しかしポワロは、おそらく必然的に、コップを受け取ろうとはしなかった。

「どうしてそんなに物事をややこしくする必要があるんです?」彼は寂しげに言った。「僕は全くの暗闇にいるんですよ」。彼は物憂げな声で言った。ポワロは、心配しないで、下に行って朝食をとってきたらどうかと答える。ポワロにはまだやるべき仕事がのこっている。

我が旧友はセットから静かに去り、私はベッドで横たわりながら溜息をつく。

ベルが鳴り響き撮影が終了したことを告げたが、動くものは誰もいなかった。かろうじて音がした。一人の俳優が主演を務める最も長いテレビドラマの一つの終わり、テレビの時代の終焉が近いことを、そこにいる皆が知っているのだ。私とともに働いてくれた全て人々がそれぞれのやり方で私を支えてくれている。だが、そのみんなが真実を避けるすべがないことを知っているのだ

セットの外で、妻のシェイラが音響係の横に座り、画面を通して撮影を見ていた。彼女が撮影に来るのは初めてだ。1988年から演じてきた小男に別れをつげるのが、私にとっていかに辛いかを、彼女は誰よりもよく分かっていたからだ。私はベッドから注意して起き上がり、ガウンを着て小さなセットの外にでて、sound stageの中央で止まった。シェイラが抱きしめてくれた。次のシーンの撮影準備に入るスタッフをから少し離れた。まるでヘイスティングスへのポワロの最後の挨拶のように見えた。シェイラが抱きしめてくれたので、私も彼女を抱き返した。何も言うことはなかった。

メイクアップ係が私の手の特殊メイクを確認しにやってきた。これのおかげで、とても年老いて見えるし、私が「とっても具合が悪いようにみえる」とHattieは気に入ったようだった。私がとても具合が悪いのは事実で、風邪をひいていた。ポワロの具合が悪いと、いつも私も具合が悪かった。なぜかは分からないが、何年もそうなのだ。ドクターFreud はどうだろうか。BBCで6シーズンあるテレビドラマでドクターFreudを一度演じ、演技で死も経験したが、今回に比べたらその死はとてもシンプルだった。今回は、親友の死なのだ。

長年にわたり、ポワロは私とともにいた。彼を失うのは想像を超えた痛みを伴った。セットに戻りシーツにくるまると、雑念を払わねばならないことは分かっていた。旧友、あるいは私にこれから起こることに集中しなければならない。ポワロの最後の事件の台本はイギリスの脚本家Kevin Elyot が書いた。彼は「雨だれのプレリュード」として知られるショパンのプレリュードNo.15 ニ短調を、ポワロがヘイスティングスに最後の言葉をかけるシーンに選んだ。Hattieはスタジオでもこの曲をかけるように言った。やさしく、心が痛むような旋律が我々を包んだ。悲しみが一層増していった。音楽が止まったので、まだ撮影中なのを確かめてベルが鳴るのを待った。私はしばらく静寂を維持したほうがいいのか自問した。考えをまとめるためにポワロと私に与えられた束の間の平和のように感じた。Hattieがもし「アクション」と言わなければ、私は指をさして、音楽を流し、カメラを回すよう指示しただろう。横たわりながら、ポワロが生きようと闘っていること強調するためにもっと浅く呼吸をしようと思った。また、それ以外にも彼はいろいろと苦しんでいる、いうことも表現したかった。ポワロは恐れている。だが、それはこの最終話のほんの1部分でしかない。この最終話で、敬虔なカトリック教徒であるポワロは自分のしたことを神が本当に許してくれるだろうか、と自分に問いかけているのである。だから、彼は苦しんでいるのだ。ポワロは最後の時がきたのがわかっているが、それがいつくるのかは、わかっていない。狭心症の発作がいつくるかと待つのは、電車がいつ来るのかと待つのに似ているからだ。それは予告なくやってくるのだ。突然、咳がでる。しゃべることができなくなり、そして息絶えるのだ。それはポワロが人生において唯一自分でコントロールできないことである。そして彼は他人となんら変わりない普通の人間として横たわるのだ。

私は長い間、ポワロが臨終の時に何を考えるだろうかと模索してきた。1ヶ月かもっと前から行われた最終話のためのメーキャップテストやコスチュームテストで何がおこなわれるのか、私はよく理解していなかったのである。顔にしわを刻み込まれるのも、手に施された特殊メイクも、最終話で部分的に使用する車椅子に座るのも初めてだった。その時になってようやく、ポワロは死ぬのだ、と心で理解できたのである。ポワロと私の関係がこれで終わるという事実をふっきれないで私は家路についた。スクリーン上で、可能な限りのリアリティを求めているので、友人の医者に信愛なるベルギー人探偵が狭心症の発作の時どう思うだろうか、と相談してみた。まさにその時、のどに何かが詰まったのである。

こんな考えが浮かんできた。最後の別れのシーンで、ポワロがヘイスティングスの入室を許す前、静寂なシーンを撮るのはどうか。そこでポワロは咳払いするのだ。両方にとって難しいシーンだ。ドラマで長年の友人であり、30年にわたって撮影をともにしてきた。私にとってはまるで、頼りない相棒を残して、長く素晴らしい結婚生活が終わりに近づいているようなものだった。指を立てて、撮影を始めるよう指示をだした。ポワロの最初のセリフは旧友に向けたものだ。「ヘイスティングス・・・、時々君は子供のようですね。無邪気で、疑り深くなくって・・・」ポワロがセリフを続けるより先に、ベッドの傍らに立っているヘイスティングスは言う。「ポワロさん、今日のあなたはひどく具合が悪そうですよ。医者を呼びましょうか」ポワロはためらって、そして咳をする。「どう良くなるっていうんです。友よ。いいんです、このままで」そこで私は一呼吸おいた。なぜなら次のセリフはヘイスティングスとの長年の友人関係が凝縮されているからだ。それはポワロにとって人生の大部分を占めるものだ。「私はいかなる時も最善の努力をしてきました。君もそう思いませんか」「もちろんですよ」「神は許してくれるでしょうか」「お許しになりますよ。あなたは素晴らしい人です。私が知っている誰よりもね」横たわりながら、長年一緒に働いてきた旧友を見つめた。胸が詰まりそうだった。それでもKevin Elyotの書いた素晴らしいセリフはちゃんと頭にあった。「気の毒な、かわいそうな、一人ぼっちのヘイスティングス」sound stageにショパンのプレリュードが響き渡り、どんな強靭な心にさえも訴えかけてくる。「シェラミ(Cher ami)」ヘイスティングスにつぶやいた。「時はきました。休まなければ」ポワロは最後の時でさえ、偉大な探偵であり続けたのだ。声をちょっとだけ強めにして、私は事件の結論を述べた。「自殺などではないのです。殺人です」

ショパンはまだ流れていたが、遠くのように聞こえた。ヘイスティングスはドアに向かって歩き、ポワロがまた「シェラミ(Cher ami)」と言う前に、ドアを閉めるのだ。

ショパンの曲は撮影のベルが鳴る間は止まったが、音量が大きくなったり、小さくなったりしながらかかっていた。再度、沈黙がおとずれた。まるで死者を覆う白布のように、ススタジオを包み込んでいた。音響係の横に何度も一緒に働いたAndrew Sissonsが座っていて、声もなく泣いていたシェイラに、優しく柔和な声で話しかけていた。「どれだけ感情的になるかなんて想像できなかったよ」

私の運転手Sean O’Connorは画面で撮影を見ながら涙していた。14年間にわたりスタントマンを務めてくれたPeter Haleも同じだった。我々はそんなに似ていないのだが。近くにいたメイクアップ係と撮影記録係はともに涙を拭っていた。皆がとても感情的になっているのは普通では考えられない光景だった。これまでのキャリアで一度だって遭遇したことはなかった。Hattieと私だけは目的を失っていなかった。まだやることはあるのだ。喪に服す前にしなければならない。俳優として、演じている役を客観的に眺めなければならないと信じているし、また常日頃そのように気を付けているし、そして役に没頭している。もちろん注意も怠らない。そうでなければ、仕事としてやっていけないだろう。

Hattieはスタッフを呼んで、ポワロが息を引き取るシーンの撮影の準備を進めた。彼女が監督で本当にラッキーだったと思っている。彼女とは2時間ドラマ「青列車の謎」で一度しか一緒に仕事をしたことがなかったが、ポワロの最後の事件に必要だと熱望していた。というのも彼女がポワロという人物に対して共感の念を抱いていたからだ。それは、私が彼女を100%信頼していることを意味している。私にとって何よりも大事なことなのだ。

Hattieとスタッフが準備を進める中、私はベッドから起き上がって、セットを後にした。私の衣装係、Anne-Marie Digbyがガウンを渡してくれて、シェイラと私は少し話をするために部屋の隅に行った。次のシーンは重要だ。ポワロの死が決して感傷的ではないことを正しく理解してもらわねばならない。できる限り現実味をもって演じたい。観客にポワロは自分しか知らない事実と闘っていることをわかってもらいたいのだ。だからポワロがロザリオを握りしめ神に許しを請う時のすべての撮影カットに真実があるのだ。スタッフは私のためにベストを尽くしてくれている。彼らと仕事ができて本当に幸運だった。週末は撮り直しの期間にしていたので翌月曜の午後、撮影がすべて終了した後に彼らに挨拶をした。シェイラはセットに引き返して、私はベッドに横になった。次のシーンは私一人だ。二台のカメラがポワロの最後の時を撮るために別方向から構えている。セリフは簡単だ。「お願いです。お許しください・・・」これだけだ。

あまりメロドラマになりすぎないようにシーンに動きがでるように試してみた。しかし同時に、私は世界中にいる視聴者に、死ぬことは簡単ではなく、また決して安らかなものではないことをわかってほしかった。ポワロの死を砂糖で包むようなことはしたくなかった。

再びベルが鳴って、撮影の開始を告げた。そしてさらに、私が指を立てたら、それが準備が整ったので撮影を始める合図であることを説明した。その時、Httie1は「アクション」と言うだろう。

私の準備が整って、彼女はそうした。私の苦しい呼吸の音だけしかせず、必要な時に手にとれるように横のテーブルに置いていたロザリオを、手にした。このシーンは一度で決めたかったので、全身全霊で演技に集中した。アガサ・クリスティが創造したエルキュールポワロを演じるためだけにその場にいた。最後のセリフを言う以外に大事なことなどなかった。ポワロの苦しそうな呼吸は「お許しを、どうか・・・」と言っているようにきこえた。そして癒しをもとめてロザリオを手にした。ありがたいことに、うまくいったと思う。Hettieは「カット」と言い、ベルが鳴って撮影が一発撮りで大丈夫だったことがわかった。その11月の曇りの金曜日、ヘイスティングスがポワロの遺体を見つけるシーンを残すだけだ。もう一度言うが、私は感傷的になどならない。ポワロは眠っているように安らかに死んでなどいないのだ。視聴者にはあまり恐ろしさを見せずに、しかしポワロは苦しんで死んだことをわかってほしいのだ。この件についてHattieと議論した。シェイラとも。彼女たちが何を考えているか聞きたかったのだ。だが私の腹ではもう決まっていて、彼の死をチョコレートの箱のように美しく見せる気はなかった。それは私が長年演じ、守り続けたこの人物にとって事実ではないのだ。

夕方6時を少し過ぎたころ、スタッフは私と同様に疲れ始めていた。数週間は週末に1日しか休めていないうえに、この日は20秒の撮影の日であった。なので、いっそう疲労が濃いのだ。周りのスタッフの顔を見てそれがよくわかった。私がいくら疲れていようと、確かなことは一つだった。ポワロの死後、ポワロはどのようにして発見されるべきか、議論するために、シェイラにセットにいるHattieと私のところに来てほしかった。ポワロは罪を償えないのではないかという恐れをいただいたまま、苦しんで死んだことを表現したかった。いつも見せてきた顔とは違うのだ。

ベルが鳴って静寂が訪れた。セリフはなく、ヘイスティングスが視線を投げかけるとドアが開いて、苦しんだ末にベッドで命尽きたポワロを見つけるのである。このシーンには現実味がなければならない。これも彼を彼たるべき演技をすべきなのだ。どんな場面でも、その人物の特徴があらわれるのだ。ポワロにはこのシーンで、おとなしく整えられたベッドで死んでいてほしくなかった。ましてや、ロマンチックにするためにシャをかけるなどしてほしくない。彼が生きようとするのを私が助けたように、現実味をもって普通の人のように死んでほしいのだ。ヒューは、寝室に飛び込んで、右腕が伸びて体の上にあり、左頬が枕に当たり、動かない私を見て、目線だけでこのシーンを演じるのだが、これがどれくらい難しいかを私は確信をもって語ることができる。ヒューもまた、120時間以上テレビドラマの中で友人であり、成人してからのとても長い時間をともに過ごした、とても親しい人を亡くしたのだ。Hattieは彼女の信念に従って撮り続けた。ヒューが寝室に飛び込んだ時と同じように、ヒューの演技をカメラがとらえている。この小さなセットにはヒュー、私、シェイラを含む誰一人として、可能な限り早く終わってほしいと思わない者はいなかった。本当に厳しい一日だった。早く終わらせたかった。その時がきた。Hattieが「カット」と言い、ベルが鳴って、本当に終わった。

Sound stageの外に止めてあったトレーラーに戻ったとき、私は何とも言えない喪失感をあじわった。この週末はシェイラと一緒に家に帰る予定にしていたが、何をしたらいいのか、まったくもって分からなかった。座ることも、立っていることもできなかった。しょうがないのでトレーラーの中を歩き回っていた。ようやく家に帰ったが、ゆっくりすることはできなかった。自分が出かけたいのか、友人に会いたいのか、家にいたいのか、わからない。食べたいのか食べたくないのか、それさえもわからないのだ。結局シェイラと一緒に家で過ごした。しかし一番辛いのは月曜の朝、Pinewoodに戻らなければならないことだ。ポワロはすでに死んでいるにも関わらず、撮影23日目、最後の日である。

週末は曇天続きでまるで我々のこれからを予知しているかのようだった。たとえどんなに困難でも、それを乗り越えなくては。

どんよりとした霧の立ち込める月曜日、最終話の最後を撮影しなければならなかった。それは、ポワロの死後4ヶ月経ってから手紙が届き、ポワロがヘイスティングスにスタイルズ荘最後の数日に起きた殺人事件を解き明かすという不可欠なシーンである。役に戻れないような気がしていたが、自分の寝室の机に座ると、ポワロが自分の一部であることの喜びが戻ってきた。私は、何が起こったのかを説明するためにヘイスティングスに手紙を書いている。アート部が私の手書きを作る方法を編み出してくれていたおかげで、何度も何度も逐一書く必要はなかったので何か特別な感じがした。幽霊が私をのっとっているようだった。ポワロの手紙は長年の友人への告白のようなものでもあった。手紙の締めくくりは「ヘイスティングス、親愛なる友よ、さようなら、さようなら」

手に握っている十字架にキスしカメラを一瞥し、エルキュール・ポワロとサインした。

ポワロを塩自治いるとき時々目に輝きをいれていたのだが、今回もそうしたかった。この最終話はずっと陰鬱である。それは間違えて笑顔で終えてしまうほど重要なことだ。最後にカメラの向こう側を見ていると、金曜にヘイスティングスに言った最後のセリフが思い出された。

「シェラミ(Cher ami:親愛なる人)」優しくつぶやいた後、ヘイスティングスはポワロを残して去るのだ。このセリフは私にとって、とてつもなく重要である。なぜなら、扉が閉められた後も同じことを言うのだから。この二番目の「Cher ami」はヘイスティングス以外に向けられているのだ。それはポワロの親しい、愛する人たちに、である。ポワロと同じ気持ちで私は彼に別れを告げた。心から悲しかった。

POIROT and me : プロローグ

この本を妻シェイラに捧げる

 

著者について

デビッド・スーシェは複数の受賞歴を持つイギリスの俳優である。エルキュール・ポワロ役として世界的に知られている。40年以上にわたる俳優のキャリアにおいて、主に舞台俳優として活躍してきた。また、ロイヤルシェイクスピアカンパニーの会員(associate artist)でもある。舞台ではDavid Manmetの作品「Oleanna」の大学講師ジョン役、ピーター・シェファーの「アマデウス」で作曲家アントニオ・サリエリ役を演じ受賞している。またテレビドラマでは、Anthony Trollopeの作品「The way we live」で大物の悪役であるAugustus Melmotte役とRovert Maxwell役でも受賞している。新鋭の写真家でもあり、妻と2人の成人した子供もいる。そしてロンドンに住んでいる。演劇に貢献したとして2011年にCBE(大英帝国勲章の一つ)を受賞している。

この本は彼の初めての自伝である。

 

Geoffrey Wansellは12冊以上の本を執筆した作家である。ケイリー・グラント、富豪ジェイムズ・ゴールドスミス卿、脚本家Terence Rattingan卿の伝記を手掛けてきた。また、グロセスターの連続殺人犯Frederick Westの公認伝記作家でもある。最高裁判所の公認事務弁護士が、彼をその役に任命したのである。今はロンドンにあるGerrick Clubの公式歴史作家である。また、ジャーナリストしてタイム紙、オブザーバー紙、サンデー・テレグラフ紙、デイリーメイル紙等いくつかの新聞や雑誌でイギリスのみならず世界的に活躍している。Geoffreyがデビッド・スーシェに初めて会ったのは、21世紀フォックス社の映画「When the Whales Came」であった。Geoffreyはその映画の製作責任者で、以来二人は親交を深めている。