chapter 4-1 . 退屈、とか、一般受けしない、とかそんなことにならないだろうか

第一話の撮影が終了してからちょうど二週間後、第二回目の撮影が始まった。この二回目に撮影されたエピソードは第三話として放送された。

タイトルは「ジョニー・ウェイバリー誘拐事件」。地主マーカス・ウェイバリーの息子を誘拐するという脅迫文が届く、という事件である。マーカス・ウェイバリーを演じたのは旧友Geoffrey Batemanである。

 

Geoffrey Batemanとは1971年にコンナートシアターで一緒に仕事をしたことがあった。1950年の日本映画「羅生門」を舞台化したもので、彼は侍を演じた。

私は俳優として駆け出しのころだったので、立ち回りや追いはぎの役をやっていた。

Geoffrey Batemanは今回、地主の役で、若干落ち目の田舎の屋敷の主人、そして息子が誘拐されるかもしれない、という設定である。ディレクターは第一話と異なり、Renny Rye。若干40歳、第一シリーズで5話分のディレクターを務めることになる。

Rennyの経歴は、テレビで子供向け番組「Blue Peter」から始まる。その後、演劇科を卒業する。彼はポワロの制作メンバーとして1991年まで参加し、その後、イギリスのドラマシリーズ「Midsomer Murders」と「Silent Witness」を監督する。

 

「コックを探せ」のディレクターだったEd Bennettはスケジュールの都合で、編集室にこもりっきりになっていた。

そこで今回はRennyがディレクターとなった。Edは次の撮影でメガホンを取り、その間Rennyが編集作業、という具合だ。1989年の1月に放送を間に合わせようとすると、つまり撮影終了から3週間後ということなのだが、ロンドンウィークエンドテレビから提示されたスケジュールに合わせて20週間で撮影を終わらせないといけないので、ディレクターが1話ごとに交互に代わるというのは苦肉の策だった。

 

「ジョニー・ウェイバリー誘拐事件」では、またもやポワロは田舎に嫌気がさしている。ヘイスティングスの愛車ラゴンダが故障して、歩く羽目になった時もぶつくさ言っている。この故障のせいで、誘拐事件に間に合わなくなるのだが。

田舎をものともしないジャップ警部は警官を複数引き連れて、誘拐事件を未然に防ごうとするのだが、失敗する。ポワロは、この誘拐は家族を良く知る人物の犯行だと気づき、ジョニーを見つけるのに成功する。

 

撮影を重ねるにしたがって、ヒューともフィリップとも仲良くなっていった。

3作目「ミューズ街の殺人」の出だしのシーンは、ガイ・フォークス・ナイトの花火の後夕食を終えて、ヘイスティングスがミューズ街の車庫にラゴンダを停め、3人が家の方へと歩いているところから始まる。もちろん他の出演者とも仲良くなれた。

David Yellandは「ミューズ街の殺人」のメインゲストだ。彼は「Chariots of Fire」で皇太子役を演じ、オスカーを受賞している。ケンブリッジで英語を学び、私より1歳若く、今回は野心的なチャールズ・レイヴァートン=ウェストを演じ切った。

 

chapter3-5. 申訳ないが、その衣装は着ない

しかも後日、ロンドンウィークエンドテレビが10話ある第一シリーズ作成のために、ブライアンに対して500万ポンドをつぎ込んだことを知った。一話作成に、50万ポンド!1988年は恵まれていたのだ。

第1話では、ポワロのキャラクターをちゃんと表現できただけではなく、彼の印象を良くすることもできたと思う。トッド夫人のメイドに見せた優しさ、そのおかげで湖水地方に来ることになり、失踪したコックと遺産である別荘について知ることになるのだが、また、ポワロは会う人すべての人に礼儀正しいこと、毎晩聖書を読む習慣があること、などがその例である。

「コックを探せ」ではポワロの人生における重要な人物が登場する。友人であり、時には敵対する、フィリップ・ジャクソン演じるスコットランドヤードのジャップ主任警部である。不思議なことに、ヒューと同じくこの撮影まで一度も共演したことがなかった。私とヒューより3才若く、nottinghamshireに生まれ、ブリストル大学で演技とドイツ語を学び、18カ月間リバプール代表となった。彼は役者として非常に幅が広く、BBCの「Last of the Summer Wine」から。Dennis Potterが称賛したテレビドラマ「Pennies from Heaven」にわたるまでどんな役もこなしてきた。フィリップは子供の時からクリスティの作品を読んでいたが、ジャップ警部の役を依頼されてからは一度も読み返していないそうだ。

フィリップは「脚本に書かれた通りに演じることにしました。」と言ったことがある。「行間を読んで人物を掘り下げることが、役者冥利に尽きるのです。」

フィリップは、愉快だが実直な警察官を演じて見せた。彼はカメラの前で、大げさに眉毛をあげて見せたり、ウィンクをするなどの、わざとらしい表情をしたりしなかった。彼は胸のあたりで帽子を握りしめ、容疑者を見つめていた。フィリップはジャップ警部について、子供のようなところがあり、気取らず、堅実でまじめな警察官だと分析していた。フィリップはシャーロック・ホームズに出てくるレストレード警部にヒントを得たようだった。だが、決して愚かに見えるように演じることはしなかった。ジャップ警部がポワロより捜査で遅れることがあっても、実際そうなのだが、フィリップはジャップ警部が恥をかかされているようには演じなかった。

撮影現場で、フィリップは私がどのようにポワロ役を演じているかすぐに理解し、ポワロという人物と対面した時、ごくごく普通に演じようとしてくれた。一方でベテラン警部としての気持ちをちゃんと表現していた。フィリップはこうも付け加えた。「ポワロとは奇妙な縁の友人関係ですが、ポワロが事件を解決してしまうことでジャップ警部は確かにイラッとしていますね。」

ポーリーン・モランが演じたポワロの秘書、ミス・レモンは時としてポワロに怒ったりする。ポーリーンはRADAで演技を学び、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーとテレビで多くの仕事をこなしてきたが、彼女とも一緒に仕事をしたことはなかった。モーリーンはミス・レモンが、ポワロの女版であると、すぐ理解した。

ポーリーンはミス・レモンについて「ミス・レモンはポワロと同様に、潔癖で強迫観念めいたものがあります。私は彼女の細かなところに至るまで、この役に適していると思います。」

また、ポワロは女性に対して恭しく、丁寧に接するが、自分も同じように扱われたいと考えているので、ミス・レモンはどんな時も、仕事でなくても、プロとしてポワロには慎重に対応しており、ミス・レモンは優秀でポワロの性格に合った秘書だ、と分析していた。また、「もし彼女が30秒でも遅れることがあれば、ポワロもミス・レモンも気が気じゃないでしょう。」

「コックを探せ」では、その後数年間がどのようになるかが凝縮していたように思う。ポワロがちょっと小うるさいこと、「灰色の脳細胞」とフランス人ではなくベルギー人であることに誇りを持っていること、特に使用人に対して寛容の精神を持ち合わせていること、ミス・レモンに対する尊敬の念、ヘイスティングの思いやりに対する喜び、ジャップ警部への優しさ、事件を解決した後にトッド夫人から送られた1ギニーの小切手を額に入れたことからうかがえる自分自身を笑える寛容さ、等である。

映像化したいと皆が望んできたリアリティある画像が、手の込んだ撮影セット、衣装、小道具、ロケによって可能になった。視聴者が、1935年、1936年、1937年がそのまま映し出されていると感じられる映像になった。ただし、1時間半のドラマを撮影するのに11日しか費やせなかった。思い出せる限りで一番厳しい撮影スケジュールがプロダクションによって示されていた。

このスケジュールでは、夜8時半に帰宅してから翌日の撮影までの間に、セリフを覚えなければならず、かなりしんどかった。朝、スタジオに向かう車の中でセリフを一人で繰り返していたので、それも大きな声で喋っていたので、運転手のショーンはすべてのセリフを聞かされる羽目になった。

数週間後、ショーンは時折、丁寧なアドバイスをくれるようになった。「お気に障ったら申し訳ございませんが、その最後のセリフは声を落とされたほうが、良くなるのではないかと存じます。声に出す必要はないかと。」ショーンは私のフィルターになって、私と同じくらいポワロについて理解するようになっていた。

撮影が始まって間もないころに、ポワロが顔を上げさせるべきかそうするべきでないかといった議論がはじまって、辟易していた時だった。失踪したコックを追跡してクラプハムにあるトッド夫人の家にヘイスティングスと訪ねるシーンで、トッド氏が会社から帰宅するのを待ちながら散歩している時、下宿人に話しかけていた。

Clive Extonの脚本では、公園のベンチに腰掛けてヘイスティングスとしゃべっている。リハーサル撮影の時、ポワロならどうするかと考えて、ハンカチをポケットから取り出して、几帳面にベンチを拭いてから座った。そうしないとズボンが汚れる危険性があったからだ。

ディレクターのEd Bennettは、その行動は馬鹿らしくみえると言って、私にたてついた。ドラマに関わる人たちと数週間議論してきたこと、つまりクリスティが書いたとおりのポワロを演じようとする決意が無になろうとした一瞬だった。私が右後ろに立って、演技を始めようとした時、そのようなことが起こった。

私は意見を変える気はなかった。ポワロはこういう場合、ハンカチでベンチを拭き、ハンカチを敷いて、その上に腰掛けるという確信があった。そうしない限り腰掛ける気にはならなかった。

「でも、非常識にみえるんだ。」と何度も言われた。「視聴者はポワロが変人だって思ってしまう。」

「そんなことはない。」と私は応えた。「これはクリスティが書いたとおりのポワロがする行動にすぎない。」

ディレクターは、私がハンカチを使うことをよしとせず、また私も思い描いたポワロ像に妥協するつもりはなかった。

ここで負けたら、私はポワロとして正しい演技を守ることができなくなる。そうなったら、私はポワロ役を続けることはできないと思った。なんとしてもクリスティが書いたままのポワロを演じなけれはならないのだ。私はクリスティのポワロについて確信がある。妥協はしない。

とはいえ、私は対立を好んでいるわけではない。というか、まったくもってそういうものを好まない。かなり困ったことになった。第三者、この場合は、エルキュール・ポワロなのだが、については議論はおこりやすい。私はポワロというキャラクターを守りたいだけであって、ポワロに対して「ラブラブ」な気持があるわけではない。ラブラブ・・・、この言葉は嫌いだ。

Ed Bannetも頑として聞き入れてくれる気配はなく、私は私で役に対して確信があったので、撮影は完全にストップしてしまった。

ブライアンが呼ばれた。ブライアンが来る間、実は心配していた。私はポワロを誰よりも知っている。間違っていない。

幸運なことに、ブライアンはハンカチを使うことに賛成し、撮影は再開された。もしブライアンがその決定をくださなければ、どうなったか私はわからない。おそらく、ディレクターの意見を受け入れたかもしれない。でも絶対にそうじゃないと思っていただろう。今まで調べてきたポワロに対して忠実でなくなってしまい、ポワロ役を続けるのが難しくなったに違いない。

皮肉なことに「コックを探せ」の最後のシーンが、世界中に放映されてしまった。ポワロは雨傘を持ち、ヘイスティングスの横に立っているのだが、なんとヘイスティングスが公園のベンチに座っている!ポワロは座っていない!ポワロがハンカチでベンチを拭くシーンはカットされたのだ。それが分かったとき、私は少し苦笑いした。

ハンカチの件が、視聴者がドラマを楽しめるかどうかに少しでも関係したかどうか、私は分からない。だが、あの時、「クリスティが書いたとおりのポワロ」を演じなければならないということを「ハンカチの件」で主張する必要があったのだと、私は今でも信じている。誰かがクリスティが書いたままのポワロを守らなければならなかったのだ。たとえどんな結果になろうとも、そう、私が、しなければならなかったのだ。

第1話が放送されて日が経つにつれて、重責を感じるようになってきた。ポワロと自分がどんどん重なりはじめ、ポワロについて知れば知るほど彼を守らなければならないと思い始めた。

第1シリーズの撮影を続けていくと、だんだんポワロと自分の境があやふやになってきた。撮影スタジオで、ポワロの衣装を着、ポワロの時代で生活を送ることが、まるで自分自身のことのように思えてきた。撮影が終わったら、私はこの世界から抜け出して現実に戻らなければならないのに。

だんだんとポワロと私は同一人物であるかのように感じてきた。そう、ポワロは私であり、私はポワロでもある。

chapter3-4. 申訳ないが、その衣装は着ない

ヒューは、舞台とテレビで活躍してきた。舞台「Edward and Mrs Simpson」では外国人秘書Anthony Eden、テレビ「Sharpe」ではウェリントン卿を演じた。そしてヒューは私とほぼ同い年で、Webber Douglasアカデミーに学んでいた。だが、Twickhamで撮影初日を迎えるまで一緒に仕事をしたことはなかった。

1939年から1946年、ハリウッドの白黒映画でシャーロック・ホームズの12作品で活躍したベイジル・ラズボーンとナイジェル・ブルースのように、私とヒューはコンビとして視聴者の記憶に残る運命となった。

ヒューはロンドン生まれの、ミッドランド育ちだ。妻は女優のBelinda Lang。ポワロがヘイスティングスを頼るように、ヒューにはたくさん助けてもらった。私もヒューを助けたことがあると思う。しかし、この信頼関係を画面に映し出すのはなかなか難しかった。カメラ写りを考慮して、どこに座り、立って演じるかを把握しておかなければならないからだ。そこで、脚本に特に記載がない限り、私は常にヒューの前に、ヒューは私の少し後ろにいることになった。

当たり前だが、ヒューはヘイスティングスを馬鹿、いや、ポワロの引き立て役として演じたくなかった。ヘイスティングスは視聴者を代表しているのだ、とヒューは考えていた。私も同じ考えだった。だからヘイスティングスが間抜けのようにしてはいけないと思った。

そのために、ヒューはかしこぶったようには演じず、ごく普通の人として演じることに勤めた。ヘイスティングスの一つの役目は、ポワロが何を考えているかを、明らかにすること、であった。そこでヒューは「まさか(good heavens)」や「なんてことだ(Good load)」といったセリフを、ポワロの態度に対して皮肉をこめて使うことにした。彼は本当に驚いているのか?偉大なる探偵を面白がっているのか?真実はともかく、このセリフまわしはうまいこといった。

ヘイスティングスが思いやりがあって実直であればあるほど、ポワロの欠点が際立って見えるようになってきた。欠点とは人物を特徴づける一定のパターンだ。ヘイスティングスに趣味もできた。深緑色のオープンカーLagondaへの熱意、田舎とスポーツ、特にゴルフをこよなく愛すること、など。

車の趣味と湖水地方は「コックを探せ」でもでてきた。ポワロは「へき地」であるKeswickに出向くことをためらい、牛道を歩くのを物怖じし、しゃれたレストランや、劇場、アートギャラリーがないことに不平を言う。

ヒューが気づいたのだが、撮影セット、小道具、衣装、ロケにどれくらいの費用をプロダクションは使う気なのだろうか。夜のシーンで、トッド夫人の家を背にチェルシーアルバートブリッジを横切っていると、その時カメラは回っていなかったのだが、ヒューが言った。「ほら、クレーンカメラを使っていますよ。それにクラシックカー数台、時代考証された衣装を着たエキストラもいますね。すごいですね。」

彼の言う通りだった。私は役作りに気を取られていたので、これらのことにこの時初めて気付いたのだ。ヒューがこのことに気付いてから、私はますます緊張してきた。何せこの莫大な予算と期待が私の肩にかかっていることが分かってしまったのだから!

chapter3-3. 申訳ないが、その衣装は着ない

「申し訳ないが、それは着ない。」冷静に言った。

「ポワロの衣装ではない。」「ポワロはモーニングスーツを着る。」

スタイリストは応えた。「ですが、私はこの衣装を渡すように言われたんです。」

彼は、驚いていたし、そして緊張もしていた。表情から明らかだった。

「そうか。でも私は着ない。」

そう伝えた時の彼の表情を私は忘れない。彼の眼には諦めが表れていたし、また混乱しているのもわかった。彼が頭を下げなければいけないのは、私か、ディレクターか。彼は悪くないのだ。

長い間があって、彼は灰色のスーツを腕にかけて更衣室を出て行った。私は、決意を固くした。今まで頭に思い描いてきた、あのポワロでなければ、私は絶対に演じない。

その灰色のスーツを指示したのがディレクターであることは分かっていたが、着るわけにはいかない。スタイリストが戻ってきて、ボディスーツを着るのを手伝ってくれた。その間、私はポワロの衣装を待った。しばらくすると、女性のスタイリストがモーニングスーツを持ってきてくれた。縦縞のズボンに、ジレーもある。私の担当のスタイリストがその衣装を受け取った。彼は一言も発しなかったが、私の提言が受け入れられたのだとわかった。

ともかく、私は撮影セットへと向かった。緊張でガチガチだった。

最初のシーンでは、カメラがエナメル靴からスパッツ、そして縦縞のズボンを映した。そして、私はズボンの埃を払いのける。その後、カメラはジレーと蝶ネクタイ、そして指を突き合わせるポーズ(私が好んで「大聖堂の手」と呼ぶポーズ)をとっている私の顔を映した。

ヘイスティングスは私が興味を持ちそうな新聞の記事を読み上げているが、ポワロは逐一却下していく。そして自分の着ている服について語りだす。それはいかにもポワロらしいことだ。

一番心配していたのは、カメラが回り始めたまさにその瞬間から、ポワロでなければならないことだった。やり直しはきかない。第一印象が最重要だ。ディレクターは数々のテレビドラマを制作してきた、当時38歳のエドワード・バネットだったが、彼が「アクション!」と叫んだ時も緊張で震えていた。

だが、私には劇場で何年も演じてきた経験があった。その経験が今回大いに役に立った。邪念を払って、集中することができた。ポワロ役に集中すれば、緊張はほどけていく。

緊張がゆるんで、潔癖症で小男の探偵を、正確に演じることができた。撮影初日、二日目、三日目も私はポワロになれた。それ以来、どの日もポワロはともにあった。撮影初日のTwickenhamで、ポワロという役に命をふきこんだのは、エルキュール・ポワロその人だったと言っていいだろう。

だが私が特に言いたいのは、共演した多くの俳優、とくにメインキャストに非常に助けられた、ということだ。頼れる親友で同僚のヘイスティングス大尉を演じた素晴らしい俳優ヒュー・フレイザースコットランドヤードのジャップ主任警部を演じたフィリップ・ジャクソン、秘書ミス・レモンを演じたポーリーン・モラン。そしてクリスティに認められた優秀な脚本家Clive Exton。

Cliveはロンドンっ子で、Islington 生まれ。1959年、ITVの「Armchair Theatre」の脚本からキャリアが始めたのと同時に映画で仕事も始めていた。1986年にイギリスに戻ってくるまで10年間ハリウッドで過ごしていた。Cliveは少なくとも20本以上、ポワロの脚本を書いた。

面白いことに、私がシリー諸島のBryher滞在中、ChristopherGunningがポワロ第一シリーズの曲を作曲していた。彼は、才能あふれる作曲家で、イギリス映画「When the Whales Came」の作曲を手掛けている。彼はテーマ曲を含めたポワロの曲を作っていて、そのテーマ曲で1989年にイギリスアカデミー賞の最優秀テレビ作曲賞を受賞している。ポワロといえばあの曲、とハミングするあのテーマ曲だ。また、私に会う人はこの曲をハミングしてくれる。

「コックを探せ」の最初のシーンでは、「国家的重要性」のない事件とポワロは言って、ヘイスティングスが読み上げた事件に何の興味も示さない。そこにミス・レモンが扉を開けてやってきて、Brigit Forsythが演じるクラプハムから来た銀行家の妻を案内してくる。トッド夫人は住み込みの料理人が2日前から行方不明になったのだと語る。ポワロは最初、些細な事件とみて、関心を示さないのだがトッド夫人は、料理人の失踪は緊急度の高い事件であり、また優秀な料理人を見つけることいかに大変で、どれほど重要かをポワロに言って聞かせる。

ヘイスティングスが驚いたことに、ポワロは自分の過ちを認め、その事件を引き受ける。このことによって、ポワロの二つの特徴がわかる。ポワロは心優しく、そして物事を難しく考えすぎない、ということだ。

実際、この「コックを探せ」で、ポワロのおおよそのキャラクターが確立された。特にヘイスティングスとの固い信頼関係の重要性などが表現された。それは、撮影初日からヒュー・フレイザーと私の関係と同じであった。

chapter3-2. 申訳ないが、その衣装は着ない

面白いことに、最初に彼と色々と話したのは、イーストエンドにあるコメディシアターまで運転してくれた時だった。Tom Kempinskiの「Separation」がかかっていたのだが、その日バスも地下鉄もストで運行していなかったのだ。

「人生を変えたいと思ったこと、ありますか」と私は言った。私はひどい渋滞に辟易していた。「どういう意味でございましょう」とショーン。私はそこでポワロのことを話した。人生の選択を運転手に任せる気になっていた。

ショーンはしばらく間をおいて、肩越しに答えた。「もちろん、ございます。」

それ以来、ショーンは私の専属になり、この国において私の映画、テレビについて一番知っている運転手となった。

ポワロ役の出勤時、必ず助手席に座った。そうするには特別な事情があった。それは私は役者として信じている核心の部分である。助手席に座るのは、ちやほやされたい、とか売れっ子気取りなのではない。またお抱え運転手がいることを自慢げに思ったりもしない。ただ、ポワロは助手席にすわったりはしないだろう。ポワロはいつも後部座席に座り、お抱え運転手がいることでハッピーな気分にもなるだろう。

そういうわけで、ポワロの撮影初日、1988年6月の朝、ロンドン横断に連れて行ってくれたのもショーンだった。後部座席で、私はこれまでのキャリアの中で一番緊張していた。

「私はポワロを演じられるだろうか」自問していた。「うまくやれるだろうか」

いい一日の始まりではなかった。

しばらくすると、ショーンがTwickenhamの更衣室前で降ろしてくれた。リッチモンドテムズ川沿いにある下り坂だ。私を担当している男性のスタイリストはやや緊張気味で、スーツを持ってやってきた。撮影初日に着る衣装が渡された。

ホワイトヘイブンマンションにあるポワロの部屋の撮影用で、短編「コックを探せ」の始まりのシーンの衣装だ。

「コックを探せ」は、泊まり込みの料理人とシティの外国銀行紙幣9万ポンドが行方不明となった事件である。

スタジオに向かう途中、ショーンと今日の撮影を思い描いていると、手に取るようにシーンが見えてきた。ポワロは、エナメル靴に、スパッツ、細い縞のズボン、ジレー、そしてモーニングスーツだ。だが、その日スタイリストが私に届けた衣装は、それではなく、ごくごく普通の灰色のスーツだった。数週間前に最初に行われた衣装合わせで感じた恐怖が蘇ってきた。私はドカッと腰かけた。

「申し訳ないが、それは着ない。」冷静に言った。

chapter3-1. 申し訳ないが、その衣装は着ない

1988年6月下旬、6時半前、明るくて気持ちのいい朝だった。撮影初日のその日、新居の周辺をシェイラと散歩していた。その日は人生で最も重要な日になると私は分かっていた。

ミドルセックス州PinnerにあるRonnie Barkerの家は、教会にも近く、私たちは購入した。特に意識したわけでなないが、夏至の日の引っ越しとなった。まだダンボール箱はいたるところに山積みだったが、一番驚くべきことなのは、この家が自分たちにふさわしい物件なのか、誰もわかっていないところだった。

玄関前の階段で、シェイラと私は振り返ってほぼ同時に言葉を発した。「ここで暮らせばきっと幸せになれる」。この家は私たち家族にとってスペシャルで、まさに夢のような物件だった。

プロデューサーが手配してくれた送迎車のほうへ向かった。私は笑いながら言った。「ポワロが失敗したら、この家とはおさらばだ。」

助手席に乗り込んでドアを閉めると、シェイラが笑っていた。発車すると、リアウィンドウから彼女が手を振っているのが見えた。口から心臓が飛び出しそうだった。新居は私の演技にかかっている。

それでも、初夏の月曜の朝はとても心地のいいものだった。ドライビングテクニックが一流だったのだ。ロンドンを超えてTwickhamスタジオまで連れて行ってくれる運転手とは、ポワロが終わるまでの25年にわたって付き合う友人となり、彼とはイングランド中をドライブすることになった。

彼と親しくなった素敵なエピソードがある。アメリカ映画「Harry and Hendersons」の撮影を終えて、イングランドに戻ってきた時、そうポワロの撮影開始より2,3年ほど前だ。私はその映画で「ビッグフット」のハンター、Jacques Laflur役だった。この役は、John Lithgowと家族が救いたかったにも関わらず、ビッグフットに殺される役どころなのだが。また、Hampstead シアタークラブからも「This Story of Yours」出演依頼が来ていた。

John Hopkins(BBCのZ Carsを執筆中に歯を折ってしまう)が書いた痛ましい事件、それは警察留置所内で容疑者である小児愛者を殺した巡査部長が焼き殺されたというものだ。

1968年に書かれたこの作品は、1972年に映画「The Offence」になった。ショーン・コネリーはこの映画化の権利を買い、主演し、探偵(刑事?)を演じ、Sidney Lumetが監督した。

Johnson役はとても重要な役で、リハーサルにはすべて参加したかったが、リハーサルなかばで私はインフルエンザに罹ってしまった。シェイラと私はまだActonに住んでいたので、地下鉄でロンドンを横断してHampsteadに行かねばならないが、それは至難の業だった。そこでタクシーを呼ぶことにした。そんな贅沢をしていいのかとためらったが、迷っている暇はない。他に方法がないのだ。タクシー会社に電話したところ好感のもてるアイルランド人運転手がやってきた。タクシーに乗り込むと、運転手はミラー越しにアイルランド訛りで話しかけてきた。「お加減が悪そうですね」「ちょっとインフルエンザでね」「なのに仕事なさるのですか」「私しかできない仕事で。みんな待ってるんです。どうしても行かなければならないのです。」

45分ほど車が走ったのち、運転手は名前を名乗った。ショーン・オコーナー(Sean O’Connor)といい、今のタクシー会社に勤めて数年だという。とても魅力的な人柄で、私はつい言ってしまった。「ああ、毎日こうだったらいいのになあ」

おそらく安心感から、リハーサルは問題なく終わり、夕方5時半くらいにスタジオの外に出た。スタジオはSwiss Cottage 地下鉄の駅近くで、ロンドンの北側に位置している。これから地下鉄に乗って帰ることを思うと、悲しくてため息がでた。

驚いたことに、ショーンが待っていた。気に留めていなかったのだが、彼は今朝、私が何時に終わるのかきいていた。

「地下鉄にお乗りになる必要はございません」と言って、彼は後部座席のドアを開けた。ショーンは家に送り届けてくれたが、代金を受け取ってくれなかった。こんなことがあるだろうか!それ以来、シェイラも私もタクシーが必要な時には、ショーンを指名することにした。

ポワロ役を依頼されてから数年後、撮影がある日は車でスタジオに通うことを許された。なので、運転手は私が選んでいいのか、と聞いてみた。プロダクションの回答は、イエス

もちろんショーンを選んだ。

chapter2-5. 彼を滑稽には演じない、絶対に

しばらく月日が経って、1988年の夏、ある想いが浮かんだ。ポワロと自分自身が重なって見え始めていたのだ。

それはリストにポワロの特徴を書き続けて、65番目のことだった。「自宅で仕事をするときでも常にモーニングスーツを着用。まるでハーレー街(※高級住宅地で医学関係の専門家が多い)の医者のように。」。

なんという偶然!(That struck a chord)。私の父はハーレー街2番地で産婦人科医を開業し、モーニングスーツを着て仕事をしている。

ポワロと自分に共通点が多いように感じてきていた。私がマントルピースに二つ物を置くとしたら、正確に均等に置くだろう。まあ、ポワロほど病的ではないと思うが。また、私は人から話しかけられやすいタイプだと思う。ポワロもそうだと思う。リストの75番目は「女性は彼と共感を得ることができる」だ。兄のジョンによると、若いころの私は可愛い女の子にもてたらしい。ジョンはもてないのに。ただ自分ではそう思っていなかった。ポワロはどうだろう。彼の恋愛に関する場面にきて私の目は『キラキラ』した。妻も同意してくれると思うが、彼女に向けるくらいの『キラキラ』な瞳になった。僕もポワロも禿げているが、僕は失恋した23歳の時に多くの髪を失った。はげてしまうほどショックな失恋だったのだ。ポワロにも同じことが起こっている。誰に失恋したのだろう?

リストの67番目によると「ふわふわのオムレツを作ってくれたイングランド人の女性に、一度だけ恋に落ちたことがある。」ポワロは結婚を望んだようだ。リストの89番目には「世の中で一番素敵なことは、男女の幸せである、と心から信じている」

ポワロと自分がかなり似ていると思い始めていたが、恋愛に関してはどうやら私のほうが恵まれていたようだ。

全くの偶然だが、撮影の数カ月前に妻シェイラと新居を探していた。子供たちが成長してきたので彼らのためにも、騒がしいロンドンでななく、郊外に家が欲しかったのだ。

最初に見た家は、PinnerのEledeneにある喜劇役者Ronnie Barkerの家だ。到着すると、妻も私もまるでクリスティの作品にでてくる家のようだと思った。窓からは光が差し込み、アールデコ調の玄関扉、ポワロが最後になぞ解きをする際、容疑者たちが全員集まれるくらいに広い応接間と庭。

さらに、Ronnieと家の売買について話しをするために食堂に足を踏み入れると、マントルピースの上に、ある衣装を着けた彼の肖像画が掛かっていた。「誰の役の時かな?」と私はきいた。彼はちょっと微笑んで「ああ、ポワロだよ」と答えた。「『ブラックコーヒー』のポワロを演じだんだけどね、あまりいい出来ではなかった」

おそらく必然的に、シェイラと私はその家を購入することになった。ポワロはわかってくれるだろう、きっと。

それからというものポワロは私の行く先々に現れた。隣の部屋から私を見ているし、挑発してくるし、スクリーンでは誠実に演じるよう求めてきた。

撮影の数週間前、クリスティの娘ロザリンド・ヒックスと夫アンソニーからランチに招待された。ロザリンドはクリスティのただ一人の子供だ(who I knew looked after the Christie affairs around the world)。

ケンジントンハイストリートに近い小さなイタリアンレストランは、ガラス張りで壁にはシダが飾られていて、明るくとても感じがよかった。レストランの椅子に腰かけながら、このランチはおそらくとても光栄なことで喜ぶべきことなのだ、と自分に言い聞かせていたが、やはりどうして、かなり緊張していた。なにしろクリスティのただ一人の子供と面会するのだ。そして彼女は70歳近い。

腰かけた時にはまだ気づかなかったが、ランチが始まると、メインディッシュの舌平目と同じくらい私も『調理され』ていたのだった。ロザリンドとアンソニーは、私がどういう心意気でポワロ役に臨むのかを知りたがった。どのようにポワロを演じるのか?彼のしゃべり方や歩き方についてどう考えているのか?ポワロ独特の気質をどう表現するのか?

レストラン自体は変わらずいい雰囲気なのだが、私たちの雰囲気は微妙だった。ランチ終盤、アンソニーがテーブル越しに、まっすぐにこちらを見て言った。

「忘れないでほしいのですが、」彼は語気を強めていた。

「私たち、視聴者も含めてですが、ポワロに好感を持ちたいのです。」

一瞬の間があった。「絶対にポワロを滑稽に演じないでいただきたいのです。絶対に、です。」もう一度、間があった。「私たちは切に願っているのです。」

私はゴクリと息を飲んだ。ロザリンドが続けた。「それをお願いしたくて、あなたにお会いいたしました。」アンソニーと同じくらい強く言った。

 

ロザリンドとアンソニーの言葉は今でも耳に残っている。この日、私は撮影初日から100%の全力を注ぎこんで演じなければならないのだ、と気付かされた。カメラが回り始めるまさにその一瞬から、クリスティが描いたとおりのポワロにならねばならない。やり直しはきかないのだ、絶対に。

そしてもう一つ、これから始まる日々は、私の人生において最も重要な日々となることに気付いたのである。