chapter3-2. 申訳ないが、その衣装は着ない

面白いことに、最初に彼と色々と話したのは、イーストエンドにあるコメディシアターまで運転してくれた時だった。Tom Kempinskiの「Separation」がかかっていたのだが、その日バスも地下鉄もストで運行していなかったのだ。

「人生を変えたいと思ったこと、ありますか」と私は言った。私はひどい渋滞に辟易していた。「どういう意味でございましょう」とショーン。私はそこでポワロのことを話した。人生の選択を運転手に任せる気になっていた。

ショーンはしばらく間をおいて、肩越しに答えた。「もちろん、ございます。」

それ以来、ショーンは私の専属になり、この国において私の映画、テレビについて一番知っている運転手となった。

ポワロ役の出勤時、必ず助手席に座った。そうするには特別な事情があった。それは私は役者として信じている核心の部分である。助手席に座るのは、ちやほやされたい、とか売れっ子気取りなのではない。またお抱え運転手がいることを自慢げに思ったりもしない。ただ、ポワロは助手席にすわったりはしないだろう。ポワロはいつも後部座席に座り、お抱え運転手がいることでハッピーな気分にもなるだろう。

そういうわけで、ポワロの撮影初日、1988年6月の朝、ロンドン横断に連れて行ってくれたのもショーンだった。後部座席で、私はこれまでのキャリアの中で一番緊張していた。

「私はポワロを演じられるだろうか」自問していた。「うまくやれるだろうか」

いい一日の始まりではなかった。

しばらくすると、ショーンがTwickenhamの更衣室前で降ろしてくれた。リッチモンドテムズ川沿いにある下り坂だ。私を担当している男性のスタイリストはやや緊張気味で、スーツを持ってやってきた。撮影初日に着る衣装が渡された。

ホワイトヘイブンマンションにあるポワロの部屋の撮影用で、短編「コックを探せ」の始まりのシーンの衣装だ。

「コックを探せ」は、泊まり込みの料理人とシティの外国銀行紙幣9万ポンドが行方不明となった事件である。

スタジオに向かう途中、ショーンと今日の撮影を思い描いていると、手に取るようにシーンが見えてきた。ポワロは、エナメル靴に、スパッツ、細い縞のズボン、ジレー、そしてモーニングスーツだ。だが、その日スタイリストが私に届けた衣装は、それではなく、ごくごく普通の灰色のスーツだった。数週間前に最初に行われた衣装合わせで感じた恐怖が蘇ってきた。私はドカッと腰かけた。

「申し訳ないが、それは着ない。」冷静に言った。

chapter3-1. 申し訳ないが、その衣装は着ない

1988年6月下旬、6時半前、明るくて気持ちのいい朝だった。撮影初日のその日、新居の周辺をシェイラと散歩していた。その日は人生で最も重要な日になると私は分かっていた。

ミドルセックス州PinnerにあるRonnie Barkerの家は、教会にも近く、私たちは購入した。特に意識したわけでなないが、夏至の日の引っ越しとなった。まだダンボール箱はいたるところに山積みだったが、一番驚くべきことなのは、この家が自分たちにふさわしい物件なのか、誰もわかっていないところだった。

玄関前の階段で、シェイラと私は振り返ってほぼ同時に言葉を発した。「ここで暮らせばきっと幸せになれる」。この家は私たち家族にとってスペシャルで、まさに夢のような物件だった。

プロデューサーが手配してくれた送迎車のほうへ向かった。私は笑いながら言った。「ポワロが失敗したら、この家とはおさらばだ。」

助手席に乗り込んでドアを閉めると、シェイラが笑っていた。発車すると、リアウィンドウから彼女が手を振っているのが見えた。口から心臓が飛び出しそうだった。新居は私の演技にかかっている。

それでも、初夏の月曜の朝はとても心地のいいものだった。ドライビングテクニックが一流だったのだ。ロンドンを超えてTwickhamスタジオまで連れて行ってくれる運転手とは、ポワロが終わるまでの25年にわたって付き合う友人となり、彼とはイングランド中をドライブすることになった。

彼と親しくなった素敵なエピソードがある。アメリカ映画「Harry and Hendersons」の撮影を終えて、イングランドに戻ってきた時、そうポワロの撮影開始より2,3年ほど前だ。私はその映画で「ビッグフット」のハンター、Jacques Laflur役だった。この役は、John Lithgowと家族が救いたかったにも関わらず、ビッグフットに殺される役どころなのだが。また、Hampstead シアタークラブからも「This Story of Yours」出演依頼が来ていた。

John Hopkins(BBCのZ Carsを執筆中に歯を折ってしまう)が書いた痛ましい事件、それは警察留置所内で容疑者である小児愛者を殺した巡査部長が焼き殺されたというものだ。

1968年に書かれたこの作品は、1972年に映画「The Offence」になった。ショーン・コネリーはこの映画化の権利を買い、主演し、探偵(刑事?)を演じ、Sidney Lumetが監督した。

Johnson役はとても重要な役で、リハーサルにはすべて参加したかったが、リハーサルなかばで私はインフルエンザに罹ってしまった。シェイラと私はまだActonに住んでいたので、地下鉄でロンドンを横断してHampsteadに行かねばならないが、それは至難の業だった。そこでタクシーを呼ぶことにした。そんな贅沢をしていいのかとためらったが、迷っている暇はない。他に方法がないのだ。タクシー会社に電話したところ好感のもてるアイルランド人運転手がやってきた。タクシーに乗り込むと、運転手はミラー越しにアイルランド訛りで話しかけてきた。「お加減が悪そうですね」「ちょっとインフルエンザでね」「なのに仕事なさるのですか」「私しかできない仕事で。みんな待ってるんです。どうしても行かなければならないのです。」

45分ほど車が走ったのち、運転手は名前を名乗った。ショーン・オコーナー(Sean O’Connor)といい、今のタクシー会社に勤めて数年だという。とても魅力的な人柄で、私はつい言ってしまった。「ああ、毎日こうだったらいいのになあ」

おそらく安心感から、リハーサルは問題なく終わり、夕方5時半くらいにスタジオの外に出た。スタジオはSwiss Cottage 地下鉄の駅近くで、ロンドンの北側に位置している。これから地下鉄に乗って帰ることを思うと、悲しくてため息がでた。

驚いたことに、ショーンが待っていた。気に留めていなかったのだが、彼は今朝、私が何時に終わるのかきいていた。

「地下鉄にお乗りになる必要はございません」と言って、彼は後部座席のドアを開けた。ショーンは家に送り届けてくれたが、代金を受け取ってくれなかった。こんなことがあるだろうか!それ以来、シェイラも私もタクシーが必要な時には、ショーンを指名することにした。

ポワロ役を依頼されてから数年後、撮影がある日は車でスタジオに通うことを許された。なので、運転手は私が選んでいいのか、と聞いてみた。プロダクションの回答は、イエス

もちろんショーンを選んだ。

chapter2-5. 彼を滑稽には演じない、絶対に

しばらく月日が経って、1988年の夏、ある想いが浮かんだ。ポワロと自分自身が重なって見え始めていたのだ。

それはリストにポワロの特徴を書き続けて、65番目のことだった。「自宅で仕事をするときでも常にモーニングスーツを着用。まるでハーレー街(※高級住宅地で医学関係の専門家が多い)の医者のように。」。

なんという偶然!(That struck a chord)。私の父はハーレー街2番地で産婦人科医を開業し、モーニングスーツを着て仕事をしている。

ポワロと自分に共通点が多いように感じてきていた。私がマントルピースに二つ物を置くとしたら、正確に均等に置くだろう。まあ、ポワロほど病的ではないと思うが。また、私は人から話しかけられやすいタイプだと思う。ポワロもそうだと思う。リストの75番目は「女性は彼と共感を得ることができる」だ。兄のジョンによると、若いころの私は可愛い女の子にもてたらしい。ジョンはもてないのに。ただ自分ではそう思っていなかった。ポワロはどうだろう。彼の恋愛に関する場面にきて私の目は『キラキラ』した。妻も同意してくれると思うが、彼女に向けるくらいの『キラキラ』な瞳になった。僕もポワロも禿げているが、僕は失恋した23歳の時に多くの髪を失った。はげてしまうほどショックな失恋だったのだ。ポワロにも同じことが起こっている。誰に失恋したのだろう?

リストの67番目によると「ふわふわのオムレツを作ってくれたイングランド人の女性に、一度だけ恋に落ちたことがある。」ポワロは結婚を望んだようだ。リストの89番目には「世の中で一番素敵なことは、男女の幸せである、と心から信じている」

ポワロと自分がかなり似ていると思い始めていたが、恋愛に関してはどうやら私のほうが恵まれていたようだ。

全くの偶然だが、撮影の数カ月前に妻シェイラと新居を探していた。子供たちが成長してきたので彼らのためにも、騒がしいロンドンでななく、郊外に家が欲しかったのだ。

最初に見た家は、PinnerのEledeneにある喜劇役者Ronnie Barkerの家だ。到着すると、妻も私もまるでクリスティの作品にでてくる家のようだと思った。窓からは光が差し込み、アールデコ調の玄関扉、ポワロが最後になぞ解きをする際、容疑者たちが全員集まれるくらいに広い応接間と庭。

さらに、Ronnieと家の売買について話しをするために食堂に足を踏み入れると、マントルピースの上に、ある衣装を着けた彼の肖像画が掛かっていた。「誰の役の時かな?」と私はきいた。彼はちょっと微笑んで「ああ、ポワロだよ」と答えた。「『ブラックコーヒー』のポワロを演じだんだけどね、あまりいい出来ではなかった」

おそらく必然的に、シェイラと私はその家を購入することになった。ポワロはわかってくれるだろう、きっと。

それからというものポワロは私の行く先々に現れた。隣の部屋から私を見ているし、挑発してくるし、スクリーンでは誠実に演じるよう求めてきた。

撮影の数週間前、クリスティの娘ロザリンド・ヒックスと夫アンソニーからランチに招待された。ロザリンドはクリスティのただ一人の子供だ(who I knew looked after the Christie affairs around the world)。

ケンジントンハイストリートに近い小さなイタリアンレストランは、ガラス張りで壁にはシダが飾られていて、明るくとても感じがよかった。レストランの椅子に腰かけながら、このランチはおそらくとても光栄なことで喜ぶべきことなのだ、と自分に言い聞かせていたが、やはりどうして、かなり緊張していた。なにしろクリスティのただ一人の子供と面会するのだ。そして彼女は70歳近い。

腰かけた時にはまだ気づかなかったが、ランチが始まると、メインディッシュの舌平目と同じくらい私も『調理され』ていたのだった。ロザリンドとアンソニーは、私がどういう心意気でポワロ役に臨むのかを知りたがった。どのようにポワロを演じるのか?彼のしゃべり方や歩き方についてどう考えているのか?ポワロ独特の気質をどう表現するのか?

レストラン自体は変わらずいい雰囲気なのだが、私たちの雰囲気は微妙だった。ランチ終盤、アンソニーがテーブル越しに、まっすぐにこちらを見て言った。

「忘れないでほしいのですが、」彼は語気を強めていた。

「私たち、視聴者も含めてですが、ポワロに好感を持ちたいのです。」

一瞬の間があった。「絶対にポワロを滑稽に演じないでいただきたいのです。絶対に、です。」もう一度、間があった。「私たちは切に願っているのです。」

私はゴクリと息を飲んだ。ロザリンドが続けた。「それをお願いしたくて、あなたにお会いいたしました。」アンソニーと同じくらい強く言った。

 

ロザリンドとアンソニーの言葉は今でも耳に残っている。この日、私は撮影初日から100%の全力を注ぎこんで演じなければならないのだ、と気付かされた。カメラが回り始めるまさにその一瞬から、クリスティが描いたとおりのポワロにならねばならない。やり直しはきかないのだ、絶対に。

そしてもう一つ、これから始まる日々は、私の人生において最も重要な日々となることに気付いたのである。

chapter2-4. 彼を滑稽には演じない、絶対に

クリスティが書いていたのはこうだ。「ポワロは、窮屈なエナメル靴でせかせかと気取ったようなステップを踏みながら芝生を横切った。」

あまり知られていないが、靴のせいでポワロの足は窮屈で、また、「気取って」歩くのである。歩き方はわかった。だが、どうやってこの歩き方をマスターしたらよいのだろうか?

かの有名なローレンス・オリヴィエの自伝に、復古喜劇の気取った歩き方をどのように習得したかについて書かれていたのを思い出した。「ペニー硬貨をお尻にはさんで、落とさないように歩いた。それができたら、役に必要な『気取った』歩き方が習得できた。」

早速、お尻にペニー硬貨をはさんで、庭を何周も歩いた。オリヴィエと違うのは、最近の小さな新ペニー硬貨を使ったことだ。彼は、大きな旧硬貨で練習したのだ。私はお尻にコインをはさんだまま、歩いたり、止まってみたり、曲がってみたり、お辞儀をしたり、と何時間も練習した。最初のうちは、何度かコインを落としたが、そのうち落とさなくなり、コインがお尻にあることを忘れるくらいにまでなった。歩幅は狭くして、ボールを足に乗せて、そしてエナメル靴のせいで足が痛いのだということを常に頭におきながら歩くようにした。

そこまできて、ブライアンに二回目のスクリーンテストをしようともちかけた。Twickenhamフィルムスタジオで、ポワロの衣装を着、メーキャップを施して(もちろん口髭も)、窮屈でピカピカなエナメル靴を履いた。そして、私はカメラの前に立った。

うまくいった。今では皆が知っている、あのポワロの歩き方だ。

最後にのこされた私の宿題はエドワード時代のマナーが書かれた本を探すことだった。ポワロがベルギー警察に勤めていたころ、1904年にAbercrombie 偽造事件という有名な事件が起こっている(「スタイルズ莊の怪事件」でスコットランドヤードジャップ警部が言及している)のなら、ポワロはエドワード時代のヨーロッパを体現する存在であったはずだ。

きっとポワロは成熟した男性として、19世紀末、20世紀初頭のマナーを習得していただろう。エドワード時代のマナーを完璧にマスターしてこそ、今までとは違うポワロが出来上がるのだ。

エドワード時代のジェントルマンはどのようにレディに挨拶をするのか、どのように帽子を持ち上げるのか、杖を持ってどう歩くのか、手袋をどう持ち、どのように、いつ外すのか、誰に対してどんなお辞儀をするのか、レディの手にどうキスするのか、どのように沈黙を理解し、黙り続けるのか。

この現代、ホンブルグ帽をかぶり、白手袋をし、銀細工が施された杖を持ち歩いている紳士はそうそうお目にかかれない。でも私は確信している。ポワロは絶対にそういう恰好をしている。

chapter2-3. 彼を滑稽には演じない、絶対に

衣装の最初は、ボディスーツだ。お腹、胸、背中、肩に膨らみを持たせて、ポワロの体型になる必要があった。私は痩せすぎていて、ポワロらしくなかったのだ。ボディスーツを着ると40ポンドほど体重が増えて見え、200ポンド以上あるように見えた。セパレートタイプのカラーをつけると、首回りが覆われて顔がふっくらして見えた。

ボディスーツの次は服だ。スクリーンテストにおいて私は次のことを主張していた。縦縞のズボンはしわ一つなく、黒のモーニングコートはアイロンがけされたばかり、グレイのベストは体にぴったりと合っていて、白シャツは輝いていなければならない、と。さらにスタイリストが、花瓶に花があしらわれた小さなブローチをボタンホールに付け足した。ブローチは口ひげの左側にあったので、長年にわたってメーキャップ担当を困らせた。

私は衣装を着てから最後に、メーキャップ用トレーラーか更衣室で口ひげを付けた。口ひげは常に二つ用意されていて、本番用とスペアだ。

衣装係の女性リーダーは始終、ポワロの帽子に丁寧にブラシ掛けしておかなければいけなかった。46番目に書かれたポワロの特徴を彼女に忘れないようにお願いした。それは、「家を出る前、常に帽子は『優しく』ブラシ掛けされる。」

自分に言い聞かせることになった48番目は「無秩序に我慢できない。洋服のたった一つの染みでも『銃で撃たれたような痛み』のように感じる。」服には一点の染みもあってはならない。

まだ写真しかないスタジオでスクリーンテストをしに足を踏み入れた時、私はためらった。クリスティは、カメラに向かうこの男を少しでも誇らしげに書いたはずだ。そこで私は、カメラの前で、自信たっぷりに行ったり来たりして、挨拶し、帽子を持ち上げて軽く微笑んで見せた。ポワロを演じられたかどうか自信はなかった。微笑んだ顔はまだぎこちなかった。

Pride cometh before a fall (←未訳) 私はポワロを演じられていない。ポワロの歩き方もなっちゃいない。

ブライアン・イーストマンとスクリーンテストを見ていて、ポワロの動きを表現できていないことに気付いた。歩幅は大きすぎるし、足取りがしっかりしすぎている。ポワロはダンサーのように歩かなければならない。それは、落ち着いていて、優雅で、足にボールが乗っているような、そんな歩き方だ。間違ってもイヤゴーのように、勇ましく、芝居がかった気難しい感じになってはならない。

Twickenhamからの帰り、車を運転しながら、心配に憑りつかれた。ポワロの歩き方をどうマスターしたらよいのだ・・・。まったくわからない。途方にくれてしまった。その時、クリスティが一度だけ、ポワロの歩き方について書いていたのを思い出した。だが、どの作品で?もう一度、クリスティの作品をひとつずつ読み返すことになった。全く偶然に、その個所にたどり着いた。

chapter2-2. 彼を滑稽には演じない、絶対に

用意してあった口髭もひどいものだった。

大きすぎ、顔からはみ出して、まるで私はセイウチのようだった。なんてことだ!もう、なんて言っていいのかさえ分からなかった。非常にがっかりしたが、決意も新たにした。見せられた衣装は、私が演じるべきポワロのものではない、そしてポワロを絶対にピエロのような格好にはしない、と再度誓った。

ブライアン・イーストマンが助けてくれて、私はようやくアガサ・クリスティが描いたとおりのポワロの衣装を着ることができた。スリーピースのスーツにウィングカラー、スパッツ、そして磨き上げられたエナメル靴だ。このドラマの準備チームにも、ポワロに理解のない人が1人か2人はいて、「テレビ映えしないし、おもしろくない。」と言いはなったが、私はエナメル靴に足をいれた。

モーニングジャケットに縦縞のズボン、グレイのジレーを着て、一日を過ごした、とクリスティがポワロについて書いていたとしたら、私はその通りにしただろう。Not a jot more, nor a jot less (←訳していない)

ポワロの特徴、22番目は「外見に対するこだわり」で、24番目には「いつもセパレートカラー、ウィングカラー」、33番目は「髪型も含めて、ポワロの外見は、決して乱れていることはない。爪もつやつやに磨かれている。」

私の演じるポワロは上記のような恰好にするつもりだったし、そうでなければ演じるつもりはなかった。

ポワロの口ひげも然りだ。顔に何かが刺さっているような、いかにもつけ足したような髭なんてまっぴらごめんだ。髭とは顔の中央に座している、ためにポワロは人生を賭して手入れしているのだ。ポワロは、一瞬たりとも髭の美しさを保つことに気を抜くことはない。私のリストによると21番目は「純銀製の髭用手入れセットをいつも持ち歩いている。旅行の時も。」

用意された口髭に妥協する気にならなかったので、ブライアン・イーストマンと私はメイクアップアーティストに、ポワロの髭をデザインしてくれるよう頼むことにした。口ひげの参考にしたのは、1933年に執筆し翌年に出版された「オリエント急行殺人事件」である。

出版から40年後、アルバート・フィニー主演の映画が封切られた時、クリスティはコメントしている。「ポワロの口ひげはイングランドで一番美しいのです。私はそう書きました。映画ではそうなっていなかった。なぜでしょうか。」

私はクリスティに従うと決めた。ポワロにはイングランドで最も洗練された口ひげをつけさせるのだ。

ブライアンと私は、クリスティが考えていた口ひげを再現することができた。大きくなく、手入れが行き届いて、丁寧にワックスがかかっていて、ピンと跳ね上がっていて、その先は鼻に届くか届かないか、そんな口ひげだ。イングランドで他に並ぶもののない美しい口ひげで、ポワロがつけているに違いない、と私とブライアンは確信できた。

1988年の6月下旬、テムズ川からそう離れていないロンドン南西部に位置するTwickenhamフィルムスタジオで、思い描いた通りのポワロの衣装にゆっくりと袖を通した。その日、第一回スクリーンテストが行われた。

chapter2-1. 彼を滑稽には演じない、絶対に

ロンドンに戻っても、私はポワロの声についてずっと悩んでいた。きちんと表現せねばならない。コメディではないのだ。誰に笑われてもいけない。話し方はポワロを演じる上でのキモになるが、どうやって彼の声を表現したらよいのだろうか。

ベルギー語Walloonと、BBCのフランス語のラジオ番組を1セット、購入したことが助けになった。ポワロはベルギーのLiege出身で、ベルギー訛りのフランス語(ベルジャンフレンチ)を話す。ベルジャンフレンチを話すのは、ベルギー人口の30%であり、生粋のフランス語にかなり近いとされるWalloonよりも多い。これらの教材に加えて、ベルギーから放送されている英語放送と、パリからの英語放送を購入した。私が一番心を砕いたのは、うそっぽくならないようにポワロにしゃべらせることだった。また、原作を読んでいて聞こえてくるポワロの声にも近づけねばならない。これらの教材を何時間も聞いていると、だんだんとWalloonとフランス語が混じり始めてきて、ポワロの声がじわじわと自分に降りてきた。胸から頭へと抜けて、ちょっと高いピッチで、そして潔癖症っぽい感じの声だ。数週間たつと、ポワロの声を習得できたという自信がつき始めた。もし実際にポワロに会ったとしたら、きっとこんな感じでしゃべるだろう、という声だ。ポワロはきっと、軽いお辞儀と握手をし、左に頭を少し傾けながら、完ぺきにブラシがけされた灰色のハンブルク帽を持ちあげて、私に話しかけてくる、そんな声だ。

彼の特徴をノートに書き続け、そしてポワロの声を頭の中で聞くことを続けていると、ポワロを演じることに一層妥協したくなくなってきた。ポワロを面白おかしく演じることはしないと自分に誓った。ポワロはうぬぼれ屋だが、私と同様まじめである。私はそれを表現したいと思った。思っていたよりもポワロと私には共通点が多いと気が付き始めた。ポワロも私も、アウトサイダー的要素がある。ポワロはイギリスに住むベルギー人で、私はパディントン生まれのロンドンっ子だが、常に疎外感を感じていた。これだけではなく、秩序や調和を求めたがることも同じだ。また、自分の信念を曲げるのも苦手だ。これはポワロの服装にも表れている。

Bryherから戻ると、ポワロの衣装合わせがあったのだが、ポワロに適した衣装ではなかった。私の目から見ても、自分がこれまでノートに書き綴ってきた原作に描かれているポワロの服装とは思えなかった。用意してあった衣装は、華美で、派手すぎた。私が演じたいと望んでいるポワロではなく、コメディ色の強い衣装だった。私はポワロを頭が悪そうに見せたくないのだ。

用意してあった口髭もひどいものだった・・・