chapter1-2. 大役はしない

1987年の秋の夕暮、西ロンドンのActonにあるインド料理店で、ある役をやってみないかともちかけられた。その前に俳優としての経歴を語らなければならない。それがあってこそポワロが私のキャリアにやってきたのだ。私とポワロはリンクしている。それは読者にとっても同じだろうと私は思っている。

最初から始めよう。いったいどうしてその役をもちかけられたのか?結局のところはわからない。20年近くというもの、魅力的な探偵ではなく、悪役を演じていた。ロイヤルシェイクスピアカンパニーでベニスの商人シャイロック、Ben Kingsleyのオセロのイアゴーを演じた。BBCの6時間ドキュメンタリードラマではSigmund Freudを演じ、トルストイの悲恋を描いた「The Kreutzer Sonata」のドラマ化でラジオドラマの賞を受賞した

Tom Sharpeの素晴らしい喜劇小説「Blott on the Lndscape」に登場するエキセントリックで邪悪な植木屋Blotを演じたのは皮肉なことに、また別の意味でも悪役であった。これは1985年にBBCでドラマ化され、このドラマがきっかけで、このレストランでの話し合いになっているのだ。奇妙で恐ろしげな男を自由自在に演じることに没頭してきたことが、土地開発者から貴族の未亡人とその田舎屋敷を守るポワロという人物に結びついたのだ。そう、以降の私の人生の多くを占めることになる小男である。

ポワロが初めて私の前に現れたとき、私は41歳であった。18歳でユースナショナルシアターの会員になって、私は悪役を演じるのが楽しかったし、ロイヤルコート思考法に基づき舞台裏にもいた。「これこそ自分が人生でやりたかったことだ」そう思ったのだ。父は私に自分の後を継いで医者になることは望んでいなかった。それでも役者になりたいと言った時、父は肝が冷えたらしい。学校で演技を学んだ。校長は父親に「デイビッドが唯一できることが演技ですよ」と言ってくれた。ただしそれは事実ではなく、私はラグビーもテニスもクリケットも同じくらい上手だった。それでも私が役者になるのを心底嫌がっていたが、それでもしぶしぶながらも、どうしようもないと思っているようだった。

情熱に満ち溢れて、ロンドンの演劇音楽中央学校(the Central School of Music and Drama)の試験を受けたが、落とされた。歌えなかったからだ。なので、ロイヤル演劇芸術アカデミーの試験に乗り気ではなかった。それでも数週間後には元気になってロンドン音楽演劇芸術アカデミー(LAMDA)の試験を受け、合格した。

しかし私は役者に向いているとは言えなかった。まだ実家に住んでいたし、スーツを着、ネクタイをして1966年にLAMDAで初めて登校したが、私以外はBeatle capをかぶりジーンズを穿いていた。

最初の授業では、学校のラグビーカラーで臨んだが、すぐにレオタードとタイツを買いに行かされた。ある先生は私にジーンズを買うように説得しようとしたが、学生時代にラグビーに励んだせいで、太ももがとても太かったのでジーンズを穿く気になれなかった。LAMDAは最初、私に役者としてあまり期待していなかったと思う。少なくともChristopher Fryの1948年のコメディドラマ「the Lady’s Not for Burning」で市長Hebble Tysonを演じた元子役のJeremy Spenser が私に役を与えるまでは。初めて役がついたし、自分が得意なことがわかりかけた。LAMDAも同じだったと思う。私が卒業した後になるが、ベストスチューデント賞で私を表彰したのだ。

1969年、チェスターのGateway シアターで副舞台監督を務めていて、2週間ごとに新作を上演していた。これは始まりでしかなく、その後数年はぱっとしなかった。キャリアで初めで十分な「休養」をとることができた。我々役者は仕事をしていない時期をそう呼ぶのだ。1970年初め、生活のために、ドッグフードを大型トラックから荷降ろしする仕事をし、またアパートのエレベーター管理担当にもなり、そしてMoss Brosでフォーマル服の販売と買付けもやった。

Moss Brosが副店長として研修を受けないかと持ちかけてきたときは、もう役者として働けないのではないかと思って、ほんとうに怖かった。ただ、断る理由はなかった。しかしその時運命が動いた。研修を受けます、と言おうと思っていたその朝、1本の電話がかかり、Robert VaughnとNyree Dawn Porterが出ているテレビ番組「The Protectors」への出演依頼が舞い込んだ。ヴェネチアで撮影中だったが、私は迷うことなくヴェネチアへ飛んだ。これでもう紳士服を売らなくていい!