chapter3-1. 申し訳ないが、その衣装は着ない

1988年6月下旬、6時半前、明るくて気持ちのいい朝だった。撮影初日のその日、新居の周辺をシェイラと散歩していた。その日は人生で最も重要な日になると私は分かっていた。

ミドルセックス州PinnerにあるRonnie Barkerの家は、教会にも近く、私たちは購入した。特に意識したわけでなないが、夏至の日の引っ越しとなった。まだダンボール箱はいたるところに山積みだったが、一番驚くべきことなのは、この家が自分たちにふさわしい物件なのか、誰もわかっていないところだった。

玄関前の階段で、シェイラと私は振り返ってほぼ同時に言葉を発した。「ここで暮らせばきっと幸せになれる」。この家は私たち家族にとってスペシャルで、まさに夢のような物件だった。

プロデューサーが手配してくれた送迎車のほうへ向かった。私は笑いながら言った。「ポワロが失敗したら、この家とはおさらばだ。」

助手席に乗り込んでドアを閉めると、シェイラが笑っていた。発車すると、リアウィンドウから彼女が手を振っているのが見えた。口から心臓が飛び出しそうだった。新居は私の演技にかかっている。

それでも、初夏の月曜の朝はとても心地のいいものだった。ドライビングテクニックが一流だったのだ。ロンドンを超えてTwickhamスタジオまで連れて行ってくれる運転手とは、ポワロが終わるまでの25年にわたって付き合う友人となり、彼とはイングランド中をドライブすることになった。

彼と親しくなった素敵なエピソードがある。アメリカ映画「Harry and Hendersons」の撮影を終えて、イングランドに戻ってきた時、そうポワロの撮影開始より2,3年ほど前だ。私はその映画で「ビッグフット」のハンター、Jacques Laflur役だった。この役は、John Lithgowと家族が救いたかったにも関わらず、ビッグフットに殺される役どころなのだが。また、Hampstead シアタークラブからも「This Story of Yours」出演依頼が来ていた。

John Hopkins(BBCのZ Carsを執筆中に歯を折ってしまう)が書いた痛ましい事件、それは警察留置所内で容疑者である小児愛者を殺した巡査部長が焼き殺されたというものだ。

1968年に書かれたこの作品は、1972年に映画「The Offence」になった。ショーン・コネリーはこの映画化の権利を買い、主演し、探偵(刑事?)を演じ、Sidney Lumetが監督した。

Johnson役はとても重要な役で、リハーサルにはすべて参加したかったが、リハーサルなかばで私はインフルエンザに罹ってしまった。シェイラと私はまだActonに住んでいたので、地下鉄でロンドンを横断してHampsteadに行かねばならないが、それは至難の業だった。そこでタクシーを呼ぶことにした。そんな贅沢をしていいのかとためらったが、迷っている暇はない。他に方法がないのだ。タクシー会社に電話したところ好感のもてるアイルランド人運転手がやってきた。タクシーに乗り込むと、運転手はミラー越しにアイルランド訛りで話しかけてきた。「お加減が悪そうですね」「ちょっとインフルエンザでね」「なのに仕事なさるのですか」「私しかできない仕事で。みんな待ってるんです。どうしても行かなければならないのです。」

45分ほど車が走ったのち、運転手は名前を名乗った。ショーン・オコーナー(Sean O’Connor)といい、今のタクシー会社に勤めて数年だという。とても魅力的な人柄で、私はつい言ってしまった。「ああ、毎日こうだったらいいのになあ」

おそらく安心感から、リハーサルは問題なく終わり、夕方5時半くらいにスタジオの外に出た。スタジオはSwiss Cottage 地下鉄の駅近くで、ロンドンの北側に位置している。これから地下鉄に乗って帰ることを思うと、悲しくてため息がでた。

驚いたことに、ショーンが待っていた。気に留めていなかったのだが、彼は今朝、私が何時に終わるのかきいていた。

「地下鉄にお乗りになる必要はございません」と言って、彼は後部座席のドアを開けた。ショーンは家に送り届けてくれたが、代金を受け取ってくれなかった。こんなことがあるだろうか!それ以来、シェイラも私もタクシーが必要な時には、ショーンを指名することにした。

ポワロ役を依頼されてから数年後、撮影がある日は車でスタジオに通うことを許された。なので、運転手は私が選んでいいのか、と聞いてみた。プロダクションの回答は、イエス

もちろんショーンを選んだ。