chapter 5-3. 木槌で頭を叩かれているような感じ

シリー諸島で過ごした夏を思い出していた。

その時、Geoffreyは言った。

「ポワロは君の人生を変える」と。

だが、まだそんなに実感していなかった。

 

1989年1月の月曜、私はまだまだ疑心暗鬼だった。そうはいっても何も変わりっこない、と思っていた。

 

翌日、火曜日の朝、ロンドンのホテル・リッツで、デイリー・テレグラフ紙のHugh Montgomery-Mssingberdと一緒に朝食を取る約束をしていた。

私は明らかに動揺していた。そこで受けたインタビューが翌朝に掲載されると、私は今まで経験したことのない世界に足を踏み入れることになるのだ、と感じたのだ。

 

Hughは書いた。

「勲章に値するテレビ界の快挙」

そして「ポワロを演じたデビッド・スーシェは昨日の朝、目覚めると有名人になっていた」

 

Hughとは初対面だったが、その朝食の席で意気投合した。食事自体はお互いダイエット中ということもあり、ミュズリーとフルーツだけだったが。

Hughは「今までで一番親しみが持てて、嫌みのない演技」と書いてくれた。

また「感受性豊かで、地味目なアーティスト」であり、

「これからのスターになることは間違いない」とも。

 

翌朝この記事を読んだ時にはかなり動転した。他の評論も常々好意的だった。

放送から一週間たった日曜、「メイル・オン・サンデー」のAlan Corenは

「テレビで放送するにふさわしいポワロ」と書いた。ポワロの役作りはどうやら間違っていなかったようだ。

 

批評もたくさん載ったが、ファンレターもたくさんいただいた。まるで私が旧知のゆうじんであるかのように見知らぬ方からの手紙を受け取ることになった。それ以来私は、ポワロのどこに視聴者は惹かれているのだろうか、と考えるようになった。

第一シリーズの反響は、私自身に対して、というよりは、ポワロに対する反応だった。クリスティが書いてきたポワロが、関心の第一番目だったからだろうと思う。私に関心があったわけではないのだ。視聴者の心をつかんだのは、クリスティでありその彼女が創造した探偵なのである。

ポワロが優しい心の持ち主であるのはクリスティがそう書いたからであって、私がそうしたわけではない。また、ポワロが常に礼儀正しく、女性に尊敬の念を抱いているのも、然り、だ。ポワロが時に間違った文法で話し、へイスティングスがそれを直すのも、クリスティのアイデアであって、私が考えたわけではない。ポワロが友人たちの悲しみに対して敏感なのも、そうだ。

私がしたことと言ったら、ポワロとはこういう人ですよ、と表現して見せただけだ。まあ、それが私の仕事なのだが。私は原作と脚本に従っているだけだ。

このようにしてITVでの放送がはじまったのだが、撮影が始まったころには予想もしていなかったが、ポワロは随分と人気があるのだということに初めて気付いた。

I cannot put my finger on precisely how he does, but somehow he makes those who watch him feel secure. 視聴者はポワロを見ているのが楽しいらしい。なぜなのか私にはわかりようもなかったが、ポワロにはそれだけの魅力があるのだろう。私の演技が期待に応えられてよかったと思う。

視聴者からの反応がはっきりと分かるようになってきた。一晩で私宛の郵便袋はファンレターでパンパンになった。第一シリーズが数話放送される頃になると、一週間に100通のファンレターを受け取っていた。ファンレターのほとんどが好意的だった。

まるで木槌で頭を叩かれているような感じがした。一体何が起こっているのか分らなかったのだ。

ドラマが成功したことは嬉しいのだが、それ以上のなにかがあるようにも感じた。私は俳優で、養わなければいけない家族がいるのだ。ファンレターも批評もありがたいのだが、何より私は働かなければならないのだ。

テレビの仕事が二本きていた。まずトム・ケンピンスキー作の「Separation」、これはポワロの撮影前に、ハムステッドのコメディシアターの舞台で出演したことがあってそれの映像化だ。そしてEdward Bond作「Bingo」、ウィリアム・シェイクスピア役だ。私はこの役を、ストラトフォード・アポン・エイボンに隠居し、金はあるが人生に嫌気がさしていて、一つのことに熱心だが、鬱な感じのある天才、として演じた。

どちらの役もポワロとは似ても似つかない。だが、これらを演じることで、同業の俳優は私がいろんな役をこなせる性格俳優であると分かってくれたように思う。視聴者もそうだと思う。

とはいえ、「名声」を手に入れて、確かに今までとはなんだか勝手が違うようになってきた。ポワロの第一シリーズが放送されて間もなく、雑誌「Hello!」に私と妻の写真が掲載されていた。これまでの私なら、考えられないことだった。Pinnerの新居での私たちを撮ったもので、まるで王族の一員かのような扱いで、世界で成功を収めるセレブリティか何かのようにも書かれていて、こんなことはまったく経験したことのないことだった。

現実はそんなものではないし、セレブリティなんかではない。シェイラと私が本当に気がかりだったのは、このままPinnerに住み続けられるのか、ということだった。ITVネットワークの一員であるロンドンウィークエンドテレビは、ブライアントと私にポワロの第二シリーズ10話の製作を打診した。まだ最終決定はされていない。予算が決まっていなかったのだ。

仕事がないと困るのだ。住宅ローンだってまだたくさん残っている。ポワロ役がつくまでの19年間、私の稼ぎはそんなによくなかった。性格俳優としての評判は良かったのだが、稼ぎにはつながらなかった。

1989年の2月下旬、ITVは第二シリーズの製作を決断した。スケジュールは第一シリーズと全く同じだった。1989年の7月上旬からクリスマスまで撮影、翌年の1月から3月にかけて放送する、というものだ。ただ、第一シリーズでLinda Agranと共にエグゼブティブプロデューサーを務めたニック・エリオットは、ブライアンに1990年1月上旬に放送する第二シリーズ一話目に2時間ドラマを求めてきた。原作はクリスティの中でも有名な「エンドハウス怪事件」である。その後毎週日曜に放送されるのは、1時間ドラマが8本。ポワロはITVテレビの日曜夜枠の定番となったようだ。

評論家の批評がよかったからロンドンウィークエンドテレビが第二シリーズの製作に踏み切ったわけではない。一応気にしてはいたようだが、決め手は視聴率で、ドラマが進むにつれて上がったらしい。そしてこのドラマは、イギリス以外でも放送されることになった。カナダ、アメリカ、ヨーロッパが興味を持っているという。ベルギーでは、これを待つまでもなく放送されていた。

世界中で放送されることになるので、「エンドハウス怪事件」と8話に加えて、第二シリーズの後にクリスティの処女作でありポワロが初登場する「スタイルズ莊の怪事件」の特集を組むようにと、ロンドンウィークエンドテレビはブライアンに要請した。1990年の後半に放送し、クリスティの生誕を祝うという。

第二シリーズの製作が決定されて本当に嬉しかった。私が作り上げたポワロが受け入れられたのだ、とホッとした。これで住宅ローンも払える。あと数年は今の家に住めるのだ。ポワロのおかげで住める家、Elmdeneと名付けた。

そしてまたあのベルギー人の小男を演じることができると思うと、心の底から嬉しかった。このままポワロとサヨナラする気になど、到底なれなかった。彼と歩む人生はまだまだ始まったばかりなのだ。そう、これからだ。