あくまで私見だが、「スタイルズ莊の怪事件」の映像化にあたり、クリスティの原作に、Clive Extonが脚本、というのはこれ以上にない組み合わせだと思う。
原作が大ベストセラーになったのは、たまたまではなく、この作品には様々なミスリードや、ひっかけがあり、また登場人物にはそれぞれの過去や感情が描かれている。
だが、あえて言おう。「スタイルズ莊の怪事件」ではポワロは人物として出来上がっていない。
他の作品のほうが、ポワロ自体の出来はいい。戦争中という設定が、作品に影響を与えていて、イギリスという新境地で、なんとかやっていこうとするポワロは真剣そのものだ。
ポワロも、そして同じく難民としてやってきたベルギー人はみな、なんとか新しい土地に慣れようともがく日々を送っていたのだ。
さて、テレビドラマ化してみると、これまでの作品とは違って最初から11分間、ポワロはまったく登場しない。
映画界の格言で、「スクリーンに金(かね)を置く(putting the money on the screen)」というのがある。映画が始まったらできるだけ早く主役を登場させる、という意味だが、まあほとんど実行されていない。
この「スタイルズ莊の怪事件」の映像化では、なんだかこれまでの作品とはちょっと違うな、という感じに仕上がっている。
タイトルコールは現れないし、クリストファー・ガニングのあのテーマ曲も流れない。その代わりに、スクリーンには、ロンドンの国会議事堂広場に負傷した兵士がいて、看護婦は裸足でこっちに向こうに歩き回り、軍楽隊は行進曲を演奏して歩いている。
そして、ヘイスティングスが療養している施設へとシーンが移る。彼はスクリーンでニュースを見ている。ロンドンウィークエンドテレビは賭けにでていた。
ヘイスティングスとほかの負傷した元兵士たちは、白黒画面で、賛否が分かれるようなニュースを見ていたのだ。そこには塹壕で死にゆく兵士たちが映し出されていた。通常、ゴールデンタイムの放送でこのようなシーンは流さない。
子供のお休み時間前、つまり夜9時前に、衝撃のあるシーンの放送は避けるのは普通なのだ。
ニュースが終わると、ヘイスティングスは、旧友ジョン・キャベンディシュから、wiltshireにあるスタイルズ莊への招待を受ける。
Cliveの脚本ではエセックスではなかった。
なぜなのかは私も知らない。ヘイスティングスはスタイルズ莊に着くと、ジョンの妻メアリ、弟のローレンス、イングルソープ夫人の後見人で、地元病院の薬局で働いているという(クリスティの経歴と被っている)シンシアと言う女性、そしてイングルソープ夫人のために40年間も屋敷務めしているというイブリン・ハワードと出会うことになる。イングルソープ夫人がベッドで苦しみながら死んだとき、またもやロンドンウィークエンドテレビは危ない橋を渡った。
夫人の死の苦しみを、ちゃんと映像化したのだ。
最初は心臓発作で死んだと思われていたのだが、地元の医者はすぐに毒殺だと断定した。すぐさま警察が呼ばれ、イングルソープ夫人の新しい夫、アルフレッドに嫌疑がかけられる。夫人の莫大な遺産の相続人だったからだ。殺人が起こるまでの間、ポワロの出番はほんのちょっとしかなかった。
最初に登場するシーンでは、同郷の難民たちを率いて、イギリスの田舎についてレクチャーしながら地元の森を散策している。
ポワロ登場の最初のカットはこうだ。
ポワロのスパッツを履いた足が、注意深く落ち葉を踏んでいる。ここでようやくいつものテーマ曲が遠くから聞こえてくるようになっている。
ポワロの全身が映し出されると、彼は仲間たちに地元にしか生えていない植物について説明する。ポワロの言うことには「スカーレット・ピンパーネル」と呼ばれる植物は、天気のいい日が続かないと開花しない、ということだった。
ポワロはちょっと間をおいて、苦笑いしながら言う。「ということは、イギリスでは、ほとんど咲かないのです」