そして難民たちを引き連れて、第一次世界大戦歌として有名な「It’s a Long Way to Tipperary」を合唱しながら、橋を渡る。
その歌声は、あまりはっきりとせず、そしてポワロは明らかに音痴である。
それはともかく、このシーンは難民であるベルギー人がなんとかイギリスに受け入れてもらおうと頑張っているのを現しいている。
ポワロが歌うシーンは、シリーズを通してここしかなく、歌手としての鍛錬を積まなくていいのだと思うと私はホッとした。
この2分後に、ヘイスティングスとポワロは地元の郵便局で再会する。
ポワロはこのとき、郵便局長である女性にいろいろな国のスパイスを扱ってくれるようにお願いしている。
インドから東洋、アフリカ諸国のものなど、である。局長によると、いろんなスパイスはすでにここにあるし、全て卸売業者から買っている、という。
局長の対応にポワロはひどくがっかりする。
というのもすでにあるスパイスの瓶も缶もポワロ独特のメソッドに合っていないからである。しかし、ポワロにはどうすることもできない。
このシーンでは、ポワロとヘイスティングスは旧知の仲で、ヘイスティングスがロンドンのLloyd’sで働いていたことがあり、またポワロがベルギー警察に所属していたことがわかる。
ポワロはこのとき60代で、退職しており、ドイツの侵攻を恐れて、イギリスに渡ってきたという。そのシーンのすぐ後で、イングルソープ夫人は殺され、ヘイスティングスは事件を解明するのにポワロの助けを借りてはどうか、と提案する。
ヘイスティングスはポワロたちが宿泊している家に出向くと、ポワロはまだ起きていなかった。だがすぐさま起き上がって、ヘイスティングスの話をきく。
今でも後悔しているのだが、このシーンでポワロをすぐにベッドから起き上がらせるべきではなかったと思っている。
起きてすぐ窓を開けているが、本当ならその前に髪を整えるべきだった。ポワロを熟知している今の私なら、彼が身だしなみも整えずに窓を開けることなどないと断言できる。
きっと丁寧に髪をブラッシングするだろう。見苦しい恰好のまま、ノックされたドアを開けたりすることなど決してしないだろう。
どうしてそうしなかったのかと今でも悔やんでいて、このシーンを見るたびに、ポワロよ、どうか起き上がらないでくれ、と願っていたりする。
当たり前なのだが、衣装係は今回の作品では、これまでより若い感じの衣装にしたほうがいいと、だいぶん気を遣っていた。
結局、この作品はこれまでのものより20年ほど前、という設定に落ち着いた。詰め込むパッドの量も減らしたし、ホンブルグ帽ではなく山高帽を被っている。首元には、蝶ネクタイではなくシルバー製のタイ飾りを着けている。
個人的には、色々な時代のポワロを演じられてとても楽しかった。ポワロが初出したこの作品でこのような配慮がされることは、まるでポワロが本当に生きているような感じがして、自信もついてきた。
スタイルズ莊での最初の撮影では、これまでのポワロと同じようなふるまいやマナーで演じていいのか、と迷いがあった。
ディレクターのRoss Devenishのおかげで、そのような迷いから抜け出すことができた。Rossはポワロについてよく研究していた。彼は撮影が終わると私のトレーラーにやってきて、ポワロについて何時間も語りあった。
「彼について教えてくれないか」Rossならこう言うだろう。「ポワロは何を思うだろうか。どう考えるだろうか。ポワロを描くのにどうやったらベストを尽くせるだろうか」
第二シリーズを担当したディレクターのなかには、私と一緒に仕事をするのは一筋縄ではいかない、と感じて人がいることを、今の私はよく理解している。
その通りだと思う。
私は俳優として、ポワロが信じているものがポワロの性格そのものであるということを曲げないからである。
その頃には自分こそが、このクリスティが創造した人物像を守ることのできるのだ、と考えるようになっていた。だから、違うと思ったことに妥協はしなかった。
なのでディレクターが扱いにくい、と思うのは当然である。でもRossは違った。彼はポワロとクリスティについて私の意見を求めてきた。
だからこそ、この「スタイルズ莊の怪事件」は特別なものになり、ポワロが変わった行動をとること、うぬぼれがあること、広範囲にわたる知識と皮肉に満ちたユーモアの持ち主である、ということも表現されていた。
だからといって決して滑稽な感じに描くことはしなかった。Rossも私もポワロには温かみのある人間として生きてほしかったのである。
イングルソープ夫人が殺され、ヘイスティングスに事件解決を頼まれたポワロは、すぐさま引き受ける。
「彼女には7人の同胞がお世話になっていましたからね。故郷から逃れてきた彼らです。ベルギー人として、イングルソープ夫人には尊敬の念を抱いております」
原作ではポワロについて詳細に以下のように書かれている。
『5フィート4インチに満たない身長だが、悠々と歩いている。頭は卵型で、いつも片方にすこし傾ける癖がある。
口ひげはいつもきれいに整えられている。
服装に至っては、文句のつけようなないくらいにきっちりとしている。
ちょっとした埃でさえ、ポワロにとっては銃で撃たれたような痛みを感じさせるに違いない、と私は思っている。』
上記の内容はいつも肝に銘じている。初めてスタイルズ莊の寝室に殺人の検分しに行くときは特に気をつけていた。