クリスティによると『バッタのように一直線に向かった』とある。これもまた忘れたことのない原文である。
この処女作にはあと二つ、ポワロの特徴が書かれている。
彼女の表現で『灰色の脳細胞』とヘイスティングスにポワロが断言するセリフ『何も隠してなんかいませんよ。事実は君も見てきたとおりです。ご自分で推理してごらんなさい』
ロンドンから捜査のために駆けつけたジャップ警部によって、ポワロのこれまでの経歴が少しわかるようになる。
ジャップ警部とポワロは「アバクロンビー偽装事件」(1904年の事件らしい)で一緒に捜査にあたったらしい。
「ポワロさんのおかげで、アントワープで犯人を捕まえることができましたよ」とジャップ警部。
警部はどうやらちょこちょこ歩きのフランス語訛りのあるこの小男を尊敬の念でみているらしい、ということもわかる。
ポワロは粘り強く捜査を続ける。暗礁にのりあがりそうな捜査、複数の容疑者、そして毒薬の特性を知るための実験をポワロは楽しんで行っている。
ここにはクリスティの小説で今後見られるいくつかの特徴が散りばめられている。田舎にある大きなお屋敷、屋敷の管理に欠かせない複数の使用人たち、テニス、午前にゲストが乗馬で寄る小屋、馬を手入れする人たち。
原作でも、今回の映像化でもエドワード朝の荘厳な感じは戦争のせいで薄れ、新しい時代の始まりが感じられるものになっている。
古き良き時代の習慣や伝統を残していくのは容易ではない。ポワロは、最古参のメイド、Dorcasに説明している時にこのことに気付き、原作で語っている「彼女こそ古き良きメイドですよ。今はもう彼女のような人はいないでしょうな」
ここにイングルソープ夫人殺人事件の一つのヒントがある。
この頃の若い人は、年寄りが死んで遺産が入ってくるのを悠長に待つことなどできないのだ、と。クリスティは、当時世界に広がりつつあった唯物主義にひそかに警鐘を鳴らしているのだ。彼女がこの本を書いていたのは1916年である。
それはさておいて、クリスティの書くポワロ物の必要不可欠な要素がこの作品には書かれている。
最後の大団円、スタイルズ莊すべての人にイングルソープ夫人殺害の機会があったという説明、そして犯人の解明へと進む手順。
ポワロが魔法のように、これまでの出来事を、まるでパズルを組み立てるようにして事件を解明すると、登場人物も視聴者もポワロに魅せられていくというわけだ。
イングルソープ夫人の付き人、シンシアにいたっては「なんてすてきなおじさま!」と。原作でもドラマでも、この実在しないキャベンディシュ家を崩壊させているのに、視聴者がポワロに寄せる好意にはなんら変わりないのである。
今現在、そのことはありがたい限りである。ポワロに好意を抱いていただいていることに、いつも驚いている。
道を歩いて私を見かけて立ち止まってくださる方、またわざわざ私に会うために劇場にまでお越しいただいた方は、みなポワロについて語ってくださる。時にはたくさんの手紙で、ポワロが自分に与えた影響について語ってくださるのだ。
まさに恐悦至極である。私はポワロを皆に好かれようとして演技しているわけではないのに、である。ただただ、クリスティが書いたとおりのポワロを演じようとしただけである。
第二シリーズの撮影が終わった1989年の12月、次のシリーズが制作されるかどうかわからなかった。
第一シリーズの時と同じく、ロンドンウィークエンドテレビの契約書には次作のことは書かれていなかったのである。第三シリーズが製作される保証はどこにもなかった。
またしても、私は暗中模索で、糸の切れた凧のような状態になってしまった。それでも、私はやはり、ポワロを演じ続けたいと思っていた。
次回作の機会があればそれを逃したくなかったので、私もシェイラもそのために生活を調整していた。もちろん、家族を養わなければいけないし、住宅ローンだって残っている。
第一シリーズが放送されて二週間後、何の予兆もなしに屋根の一部分が剥がれ落ちてきたのだ。
でもそれがポワロ役を続けたいという本当の理由ではない。
彼は私の人生の一部分になっていた。親友のような存在だ。私も皆さんと同じように彼に親しみをもっている。
ポワロに二度と会えないかもしれない、と思うと、とても悲しかった。自分のキャリアに望むのは、ポワロを演じ続けること、それだけだった。