瀬戸 角人

セト カクート と読ませている。
小国ではあるが、王族の血統に生まれ、白眉の向こうに蒼い瞳をもつ、齢70を越えた哲学家である。

私はこの老哲学家が出てくる場面を好んで、なんども読み返している。
後宮小説」がタイトル通り、主に後宮の出来事を書いているにも関わらず、読後に清々しささえ感じるカラリと乾いた作品に仕上がったひとつの要因として、この老師の存在は欠かせない、と思っている。

老師は心のうちに深い絶望を抱えてなお、対人物的には、いたって軽く接している。ここでいう軽く、とは人を軽んじている、という意味ではない。
自分の知識や哲学をひけらかしたり、勿体ぶったりしない、ということである。

表面上、勿体ぶったりはしないが、誰にでも教えているわけではない。
銀河の純粋さや探求心、老師の老獪さや心の闇が化学反応を起こした結果、読者は老師の哲学の核心を、いともあっさり知ることができるのである。

また、この老師に敵はいなかった、と書かれている通り、70を過ぎたこの老人は、弱冠17歳で玉座についた皇帝を「聡明なる方」と呼び、菊凶を破門できなかった自分の弱さを、土下座までして謝っている。

なかなかできることではないと思うが、これは彼自身が王族の血をひいていることと関係しているかもしれない。

そんな角人老師はアニメではどう表現されたのか
現代的にみれば、70を越えたくらいにしては、枯れすぎている容貌だが、70歳が古稀、つまり古来より稀なり、と言われた年だと思えば、妥当かもしれない。

アニメで 双槐樹は「(銀河が)まだ子供だってことは、カクート先生から聞いて知っている」と言うシーンがある。
自分で自分がわからないのだが、私は高校生まで、この「子供」の意味していることが、全く分かっていなかった。
何かの拍子に気付いたのだが、その時は銀河よろしく「ひえー!」と叫んでいた。もちろん心のなかで、だが。

で、話を戻すと、原作では、角人老師が銀河の質問に答える際にその話題がでるので、無理のない展開として、理解できる。しかし、アニメでは、そういった伏線がないので、視聴者は、なんでそんなこと知ってるんデスカ?と、思うだろう。

原作の銀河は、「子供でなくなった」時も、角人老師に、相談しに行っている。さくらももこのエッセイ漫画に、「初潮がきたなんて、絶対誰にも知られたくないのに、赤飯を炊くなんてデリカシーのない習慣、絶対にやめてほしい」ということを書いていた。実際、私も同じことを思った。
(ただ子供をもって初めて、赤飯を炊きたい気持ちも分かったのだが)

な、の、に、
銀河は、師匠であり、男性である角人老師に相談しているのである!
まあ、銀河は角人先生を異性とは露ほども感じていないと思うが…
いやいや、問題はそこではない。第3者に喋ったということに、ビックリした。

じゃあ、どうして相談するシーンが必要なのかというと、
この後、双槐樹は角人老師から「子供じゃなくなった」ことの報告を受けるのだが、銀河本人が言うまで、知らぬような行動をとっている。
ここで 読者の双槐樹に対する好感度がアップするのである。

国家が関わると、極個人的な情報が、国家機密になったりするのか
公人は大変だなあ

「子供じゃない」という表現が具体的に何を意味しているのか、私は恐ろしく頭の回転が回らず理解できていなかったので(言い訳するなら、原作では、もっとはっきりした表現を用いていた)、アニメで銀河が「もう子供じゃないもん」
と言った後の展開に、ひたすら「?」だった。

回りにきいたら、みんな分かっていたよ…
ちなみにアニメには、銀河が子供じゃなくなったことを示す短いカットがあるのだが、この私に分かるはずがあろうか。
でも、みんな分かってたらしい…
ビックリポン

原作は、伏線がきちんとはってあるので、上記と同じ意味の銀河の台詞が効果的に使われていた。

話が本題からかなり反れたが
角人老師は、銀河と双槐樹のプライベートの極致に関わる立場で描かれていながら、また絶望を経験してなお、人生の意義を哲学という高みに昇華させ、秋空のように、清々しい存在のまま、永眠したのである。
この小説では、多くの登場人物が不遇の死を遂げているが、角人老師は唯一、天寿を全うできた幸福な人である。

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